第2章 悦子の悲しい思い出-1
第2章 悦子の悲しい思い出(1)
(遅いな、美弥は!もう八時を過ぎたというのに……)
木星社の調査部長の花森悦子は先ほどから時計ばかり見ていた。予定では、八時には着いていなければならなかった。
ブラインドの隙間から何度も外の路地を見ていた。
しかし、眩しそうな顔をして無秩序に行き交っている人の群れだけが見え、美弥の姿は現れなかった。
今回の計画は、信玄製薬とライバルにある謙信製薬から依頼されたものだった。新しい薬品の開発は多額の経費のみならず膨大な時間を必要とした。そのため他のメーカーが新製品を発表した後で、それを追撃しても利益を回収するまではべらぼうな時間が必要であった。そしてその間に先発メーカーはさらに強力な製品が開発できるのだった。今回の謙信製薬の依頼は社運をかけたものだった。
妊娠中絶用座薬は、これから大きな期待をもてる夢の製品だった。
避妊の必要がなく、妊娠がわかってから膣内に挿入するだけで良かった。子宮内の胎児を掻き出すという物理的な方法に比べて、安全面でもありがたかった。婦人科の椅子の上で開脚するという恥ずかしいポーズをとらなくて良くなっただけでも女性にとって精神的にどれだけ救われることか。世界中が待ち望んでいた薬といっても過言ではないだろう。
(なんでこの薬がもっと早くできなかったのだろう)
悦子は数年前の自分の中絶のことを思い出した。
闇中絶だった。
仕事帰りの金曜の夕方、小さな薄汚れた看板を掲げた民家のような医院で搔爬を受けた。
悦子は看護師の指示に従い、空調の効いた処置室で、婦人科の椅子の上に下半身裸で仰向けになり、両手首と両足首をベルトで固定された。
「足……拡げますね」
看護師はゆっくりハンドルを回し,悦子の足首が肩幅くらいに拡げられた。股間に冷気が入ってくるのがわかった。
「ああっ……」
あたかも挿入を待つ姿勢に思え、悦子の頬が赤らんだ。
悦子の様子を見て看護師は股間部には形だけの極小ガーゼが置いた。黒々とした繁茂やそれに続く縦長の秘裂は丸見えに近かった。上半身はかぶるタイプの手術着一枚のため、外からは見えないが、大きめの乳房は自重で左右に垂れていた。その姿勢で待つ時間の長かったこと……。悦子は緊張と羞恥で既に汗ばんでいた。
器具が運び込まれ,ようやく医師が入ってきた。その後、看護師が椅子を数脚持ってきて、悦子を囲むように置いた。
(えっ……何なの……)
掻爬のための麻酔をかけられる前に,医師から恐ろしいことが耳元で囁かれた。
「実はね。……掻爬するところを見せて欲しいという人がいるのだが、……いいよね?」
悦子は自分の耳を疑った。男女数人が手術の様子を見せて欲しいというのだ。
「いやです。そんな話……聞いていません。……それでなくても泣きそうなくらい後悔しているのに……」
「だから、今、話しているんじゃないか。……それに見るといっても、あなたは麻酔で眠っている間がほとんどだから気にすることも無い……ねっ、大丈夫だよ」
「そんなこと……」
「みんな,真面目な方ばかりだ……社会的な地位も高い方ばかりだ。勉強のために、……ということなんだ」
「止めて下さい……お願いします」
「ほら、同意書にも書いてあるだろう。『必要に応じて観察や計測を行う……』……わかったろう。もうだめなんだよ。……さあ、あきらめて……おい、いいよ、入ってこい」
医師が合図すると、ざわざわとしながら扉を開けて三人の男と一人の女が現れた。
<第2章 悦子の悲しい思い出 つづく>