〜 情報その3 〜-1
〜 2番の情報 ・ HP鑑賞 〜
【B22番】先輩が窓を開くに任せ、私と22番さんは、一通り史性寮のBグループの先輩方が作ったHPを眺めました。 中には『海女の歴史』や『乳製品の歴史』みたいな食品を扱ったテーマもあって、印象に残りました。 まあ、中身は相変わらず肌色一色でしたけど。 海女にしても、単に潜らせるんじゃなく、やれ牝の首に縄を括り、鵜飼のように扱う喉マンコやチツマンコで収穫するべき、みたいな内容でしたし。 乳製品だって牛乳ではなく母乳で生産するべき、という主張でした。
他にも、先輩方は先々年度――現Aグループ生を含む、2年前のCグループ生――の製作HPも特別に見せてくれました。 長い『史性寮』の歴史から見ても、今年度のAグループ生は特別に優秀な生徒が揃っていて、成績も歴代で5本の指に入るらしいです。 そういわれてみると、テーマは兎も角、どのHPのクオリティも物凄いことに気づきました。 幼年学校時代にネットサーフィンした企業HPに遜色ありません。
最初に見せてもらったのは『娼婦の歴史』というHPです。 これは【A4番】先輩――現寮長にして、生徒会副会長――が作ったものと伺いました。 『娼婦』――牝が自分の身体を貨幣価値で換算し、『聖なる瞬間』を『性なる瞬間』へと、『高貴な果柄(かへい)』を『好奇な貨幣』に自ら貶めた転機ですよね。 自分のカラダを提供する代わりに、殿方から生活費を工面してもらうという、幾重にも厚かましく不遜が重なった生業です。
それはともかく【A4番】先輩の手によるHPは、娼婦の有り様が年代順にカテゴリ分けされ、更には地域ごとの風俗差も勘案されていました。 HPによれば、これまで良く知らなかった娼婦という存在は、現代には存在しないものの、歴史的には由緒も伝統もある存在、とのことでした。
……。
『古代の娼婦@ 〜エジプト・クフ王の時代〜
王の棺を納めるピラミッドを作るため、王は4人の娘に売笑を命じました。 各地の権力者は王の娘を1晩自由にするごとに、小麦粉20トン分の財を寄贈したといいます。 娘の中には夫に貞操を誓った者もいたが、実父から与えられた姦淫の機会を逃すことなく、多数と交わる享楽に耽ったそうです。 交わる場所は王座から妃の寝室まで様々で、王の娘が指定しました。 夫とは寝室でのみ交わっていた娘も、ここぞとばかりに浴場や屋上といった性交にそぐわない場所にて交尾をねだったということです。
古代の娼婦A 〜メソポタミア・バビロンの時代〜
身分の如何を問わず、すべての女性は生涯で1度、婚姻前にミュリッタ(アフロディテ)神殿において不特定多数に身を委ねます。 売笑の報酬金はあくまで儀礼的なもので、小銭でした。 現代でいうと100円という所でしょうか。 神殿を訪れた殿方は、気に入った女性を見つけると、女性の膝に小銭を投げて指名します。 女性は指名されればどのような殿方であろうと拒否を認められず、神殿奥の小部屋で一昼夜の間、殿方に身体を捧げる至福を味わったそうです。 なお、殿方の指名を得て売笑が成立するまで神殿から解放されないため、神殿に入った女性は少しでも早く殿方の指名を貰おうとしました。 当時は認められていた衣服を脱ぎ、当時はしたないとされていた胡坐――上付きな場合は覗き込んだときに陰唇が見える――をかき、顔は装飾具や化粧で飾り立て、あまつさえ神殿の入口近くで殿方を待ったといいます。 記録では数年間殿方に相手をしてもらえず、神殿で待ち続けた女性もいたということです。
古代の娼婦B 〜ギリシャのポルノイ〜
ギリシャのポリスでは、国家が女奴隷を購入し、一か所に集めて売笑させました。 つまり、国家が娼婦を管理した。 奴隷は性技能、容貌によって低級(ポルノイ)から高級(ヘタイラ)まで厳格に格付けられ、身分を示す首輪の常時装着を義務付けられていました。 装いについては、履物の底に『私についてきて』『私をあげます』といった文字の型がつけてあり、歩くたびに砂地に上記の文字が浮かぶ仕組みになっていたそうです。 娼婦は一般女性と差別化され、催事、祭事への参加は認められず、娼婦を止めてからも『元娼婦』を示す首輪の装着を義務付けられました。
古代の娼婦C 〜ローマのルパナル〜
市民と帝政がないまぜになった時代、一般の殿方から皇帝にいたるまで、娼婦が売笑する場所・娼館(ルパナル)を提供していました。 皇帝の妃や権力者の妻であっても、こういった娼家で配偶者以外の殿方から享楽を貰っていたといいます。 逆に皇帝が妃、貴族の妻、息女に銘じて娼家で働かせることもありました。 娼婦自身に客引きが課せられており、自分の性技を壁に描いて広告したり、全裸で館前にて声をかけたり、貴賤を問わず殿方に情けを乞うたそうです。