おはよう!-1
「ただいま・・」
春休み最後の週に行われていた鼓笛の練習にしっかり参加した和音は教え疲れた体を引きずりながら、家へと帰宅した。
明かりがついていない、ひっそりと静まっている玄関を見て、「あぁ、今日もか」と呆れ、ため息をついた。
静かに玄関の扉を開け、誰もいない空間へと帰宅したことを告げる言葉を言っても、どの返事もない。
それにすら何とも思わず、和音はトントンと階段を登る。
2階の真ん中にある自分の部屋に向かってると、自分の部屋の前に誰かが座り込んでいるのを見つける。
といっても、この家に住んでいる人間でそんなことをするのは一人しかいなかった。
「・・波音。」
「・・・おかえり、和音姉」
「ただいま。・・母さんはまた出た?」
座り込み、足を抱え込んだまま、波音は細い首を動かして頷く。
予想していたとはいえ、今度こそ和音は呆れた。
「夕飯、作るよ。何がいい?」
「・・何でも?」
顔を上げて、和音を見上げる波音。その目には、はっきりと寂しさが見て取れた。
誰もいない家で一人きり。病弱で、なおかつ10歳の女の子には辛いものがある。
改めて、頻繁に練習へ参加することで波音に申し訳ないことをしたなと和音は思った。
母親がまさか今日も家を出るとは予想外だった、と、和音は心の中で舌打ちをした。
だが、それを悟られないように笑顔になると、和音はしゃがみ込んで波音と目線を合わせた。
「何でも。その代わり、時間も遅いから波音にも手伝って欲しいんだけど」
和音の言葉に、波音は嬉しそうな顔になった。
「うん!!」
和音は隣でじゃがいもの皮を一生懸命にむく波音を見て、少し笑みがこぼれた。
笑顔が戻った波音に、和音は安堵した。
慣れているとはいえ、やはり自分の家庭事情に嫌気がさした。
「和音姉、今日の練習はどうだったの?」
「え?・・別に、普通だったけど・・」
「お友だちに教えてるんだよね、和音姉みたいになる?」
つぶらな瞳で、純粋無垢に聞かれると無下にできない和音は苦い顔で答える。
「とりあえず、友だちじゃないからあんな奴・・」
「そうなの?」
「うん。ただの知り合いだから。」
「じゃあ、どうして和音姉が教えてるの?」
「・・・さあ。」
もう何人もの人に聞かれている質問は慣れてしまっている。和音は首を振って答えた。
相手が年の離れた、幼い波音だからか。他の人には言えなかった言葉が出てくる。
「何が何だか知らないけど、約束、なんて取り付けちゃったし」
「約束?」
「ホルンを教えて、舞台に立つ・・。どうして私かは知らないけど」
「・・・」
「・・波音?」
人参の皮むきをしていた和音は、突然黙り込んだ波音に視線を移す。
波音はというと、じゃがいもを片手に笑顔を浮かべていた。
その笑顔の意味が分からない和音は首を傾げた。
「・・波音?」
「和音姉、相変わらず鈍感だね」
「は?」
クスクスと笑いながら答える波音の言葉に、和音は思わず聞き返した。
「お友だちさんは、和音姉にやめて欲しくなかったんだよ」
「・・は?」
「きっと、和音姉のホルンが好きなんだね。」
「・・・」
今度は和音が黙り込む番だった。
思ってもみなかった言葉に、ただ言葉が出てこなかった。
波音の推測でしかない言葉が、和音の心をえぐった。
「(・・私のホルンが好き・・?そんなわけない。ただ、ホルンを教えて欲しかっただけ・・)」
和音が何も言わなくなったのを見て、波音は自分の皮むきの作業へと戻る。
まだ自分の皮むきが終わっていない和音は、ただじっと手元にある中途半端な人参を見つめた。
「(・・本当に?)」
心の中で、自分の言葉に非を唱えると、人参の皮むきを一気にやり終える。
そして、人参をまな板に乗せて包丁で銀杏形に刻んでいく。
途中、皮むきを終えたじゃがいもを受け取ると、それも同じ形に仕上げる。
「(・・・優羽さんが言っていた、あいつは私じゃないと意味がないっていう言葉。私が教えて、一緒に舞台に立たなきゃって。)」
材料を切り終わると、小鍋に水を張り、火を点けて水を沸かす。
沸騰すると、切り終わった材料と椎茸を一緒に鍋の中へと放り込む。
「(・・辞めて欲しくない、だから私と一緒に舞台へ?でも、それなら舞台に立たなくても素直に辞めるなって言えばいいのに。)」
グツグツと煮立っていく鍋を見ながら、和音はぼんやりと考えた。
「(あぁ、辞めるなって言ったんだっけ。じゃあ、教える約束の意味ないか。・・・あれ?私、何で教える約束したんだっけ・・・・)」
調味料をお玉に流し入れ、鍋へとかき混ぜながら、考えていることが堂々巡りになっていることに気づいた和音はお玉をグルグルとかき回した。
「(・・もう、母さんも、姉さんも、奏多も意味がわからないからこんなにグルグルしててるんだ、きっと)」