ヴィーナスの思惑-1
『…わたしという女がまだお分かりにならないの。私はそうですとも、私は残酷なの。ほら、
あなたはこの残酷という言葉だけで、もう嬉しくてたまらなさそうだこと…。ねえ、残酷では
いけないかしら。男は欲望するもの、女は欲望されるもの、女の取り柄はそれしかないけど、
これは決定的だわ。男は欲情に縛られる、そこを虜に取って自然は女に男を与えたのよ。男を
跪かせ、奴隷にし、いいえ、玩具にさえして、最後には男を裏切ってせせら笑ってやる才覚も
ない女はばかだわ…』(「毛皮を着たヴィーナス」L・ザッヘル=マゾッホ)
…ぼくは、彼女に虐められるだけで胸がいっぱいになる。吐かれる彼女の言葉、頬を打つ彼女
の掌、ペニスの幹に喰い込む彼女の指の爪…。そんなとき、ぼくは、彼女の心とからだを抱き
しめたいほどからだの中が充たされるのだ…。
辻井ミチオは、アカネさんが書いたというネットの投稿小説「藍雨」の一節を宙に諳んじた。
「まるで、あなたのことを書いたみたいな小説だったわ」とアカネさんは微かに恥ずかしげな
笑みを浮かべた。
ミチオはアカネさんと十七階建てのホテルの最上階にある小さなカクテルバーにいた。夜も更
け、バーの窓からは漆黒に塗り込められた港の風景が見わたせた。バーのカウンターの隅には
一組の若いカップルが、店主である白髪のバーテンダーと話をしていた。
窓の外では闇の中で散りばめられた様々な光の粒が、いつのまにか降り始めた雨の中で薄らと
瞬いている。夜だというのに、降り始めた雨は、あの頃と同じように、なぜか藍色に見える。
ミチオは今年、三十五歳になった。アカネさんは彼より十歳年上だった。彼女はつい三か月前
に会ったばかりの女性だというのに、なぜか以前から知っているような気がした。その理由は
わかっている。ときどき瞳を細め、きゅっと唇を噛む冷酷な仕草は、なぜかあの人に似ていた
のだ。ミチオは、アカネさんの顔立ちに何かしら遠い追憶を重ねながら不思議なものを感じて
いた。
あれから、もう十五年。燿華…それがあの人の名前だった。ミチオが、二十歳のとき、初めて
恋したあの人は、SMクラブの女王様だった。
「その人は、あなたを虐めるSMクラブの女王様なのに、初恋の人だったかもしれないのね」
とアカネさんは、小さな笑みを浮かべながら言った。ミチオは恋という意味がよくわからなか
った。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
ミチオは、曖昧に答えながらも、あの頃、あの人に対していだいた不思議な想いを感じていた。
「でも、ぼくにはよくわからないんだ。あの人がいったいどんな人だったのか。でも、あの人
であるからこそ、ぼくは彼女に《与えられた存在》となれた気がする」
「与えられた存在って、彼女の奴隷になるってことかしら」
「奴隷って言葉があてはまるのか、どうかはわからないけど、少なくともぼくがあの人のもの
になるということで、心とからだを自然に開くことができたとずっと思ってきた。でも、ぼく
があの人に与えられるっていうことがどういうことなのか、ぼくはあの人の記憶を失ってから、
いつのときもそのことばかりを考えていたんだ」
ミチオは自分の中に残った、あらゆる部分を思い起こすように小さく呟いた。