ヴィーナスの思惑-14
その夜、ミチオはふたりの夢を見た。男の唇があの人の潤んだ唇を覆い、彼の繊細な指爪が彼
女のふくよかな乳房に喰い込み、彼の蒼く翳った尻が彼女の腰の上で波うち、彼女の熱気と沸
き立つ匂いのすべてを吸い取っている憧憬…。裸のふたりが睦み合うように絡み、ベッドのス
プリングが軋むけたたましい音が、ミチオの鼓膜の中で響き続けた。
彼女はあの男の猛々しく尖ったものをからだの奥深く咥え、吹き出る精汁のぬるみを子宮に鱗
を逆立てながら導き入れているのだ。憧憬を包む空気は、ミチオ自身の心と肉体を希薄にして
いき、彼の肉肌のすべてを剥ぐような息苦しさを彼に与えた。
男は、あの人のすべてに触れることができる。あの人の艶やかな黒髪をかきあげることも、頬
に指を触れることも、彼女を奪うように唇を重ねることも、耳朶を甘噛みし、首筋を愛撫する
ことも。きっとあの人の下着の上から触れる乳房はとても柔らかく、触れられる男の手によっ
て薄い生地の下の乳首は息吹き始めるように堅さを含んでいくに違いなかった。
ミチオの夢の中で、男はあの人のからだの息づかいを隅々まで嗅ぎ取っていく。ミチオは自分
があの人のものでないことを、そしてあの人が自分のものでないことに不可解な孤独という烈
しい苦痛を感じた。それは彼女がミチオに与える鞭の痛みではなく、不条理な苦痛であり、地
の底に堕ちていく絶望に近いものだった。
そして、夢から覚めたミチオは、自らの貞操帯を外したのだった…。
―――
カクテルバーの窓から見える港の光が蛍火のように夜の雨にまぶされ、風景は漆黒に塗りこめ
られている。降り続く雨は、やっぱりあのときの藍色の雨に似ていた。カップルの客が帰り、
店の客はミチオとアカネさんふたりだけになった。カウンターの中でグラスを磨く白髪のバー
テンダーは、ときおり何か気になるようにアカネさんに目を向ける。
「ミチオくんは、送り返されてきた鍵で自ら貞操帯を解いた。その瞬間、あなたは彼女に《与
えられたもの》でなくなった」そう言いながら、アカネさんはどこまでも澄みきったブルーの
液体の入ったカクテルグラスに唇を寄せた。
「あの人に恋人がいることを知ったあの夜、ぼくは射精したんだ。貞操帯の鍵を解いた瞬間に。
まるであの人がぼくに刻んだすべてのものがひとりでに吹き出すように。うまく説明ができな
いんだけど、そのときぼくは、ぼくでなくなった気がした…」
ミチオはあの人が男とホテルに入ったあの日以降も、彼女の行先をあてもなく探し求めた。
あのホテルの前でいつまでも彼女を待つこともあった。でも、あの人と二度と会うことはでき
なかった。そして、あの日の夜もふらふらとあのひとを求めて、あてもなく通りを歩いていた
ときに飛び出してきた車にはねられたのだった。
意識不明の重体…。ミチオは昏睡状態に陥り、死の淵をまるで何かを求めてさまよい続けた。
でも、ミチオはそのとき自分が何を求めて、どこに行こうとしていたのか思い出せなった。
一週間後、ふたたび意識が戻ったときには、なぜかあの人の記憶だけがなくなっていた。どう
しても彼女の顔が思い出せなかった。もちろん、あれからあの人がどうなったのかはミチオが
知る由もなかった。