見えない正体-2
阿宗会。
牛蒡型の注連縄に「阿」の代紋。
下部組織20団体、構成員約300名。準構成員を合わせれば1500名を超える、東北地方の一大勢力。
元は、テキ屋同士の相互扶助団体であり、東北3大祭りを主な生業とする香具師集団だった。
「秋田神農連合会」の名称で立ち上がった組織は、日本高度成長期の昭和41年、初代会長となった宗形光昭(むなかた みつあき)によって、「阿宗会」と名称が変更される。
名称変更の理由はいくつかあったが、その最も大きな理由のひとつに、同じく東北一帯で活動する「本間会」の勢力拡大があった。
秋田神農連合会の独占に近かった祭事神事分野に、本間会が進出を図り、活動圏の縮小を危惧した宗形は、それまでの協同組合型連合から、家長制度による徒弟制へと組織を移行させることを決断する。
家長への忠誠による帰属意識を高めることにより、組織の強化を図ったわけだ。
宗形のカリスマ的存在感と、元々、徒弟制が強く根付いていた組織形態は、新体制への移行をスムーズに行わせたらしい。
同地域に本間会という強敵がいたことも手伝って、阿宗会は、瞬く間に結束力を強め、まさしく一枚岩の巨大な組織へと変貌していった。
強力な指導者の下、宗形体制は20年以上の長きにわたり続いて、その間も離合集散を繰り返したが、その勢力が衰えることはなかった。
昭和の終わりとともに、宗形は、その役目を果たし終えたかのように引退を表明する。
現会長は4代目。
しかし、宗形が引退した直後から、阿宗会は、大きく変質していくことになる。
宗形により跡目に指名された2代目が、襲名してすぐに本間会によって暗殺されると、入れ札により3代目となった芽室優樹(めむろ ゆうき)は、阿宗会を、武装路線の武闘派集団へと体質を大きく変化させていく。
また、それまでのテキ屋を中心とした小売業主体の事業形態から、恐喝、賭博、売春、人身売買、ヤミ金融など、ありとあらゆる非合法的経済活動にも手を染めるようになり、まさしく暴力団としての顔を前面に押し出すようになった。
芽室が就任してから7年後、阿宗会の中でも生え抜きの経済ヤクザとして、芽室からの信任が厚かった速見尚人(はやみ なおと)は、その芽室の推薦によって4代目会長の座に就くと、すぐに、辣腕ぶりを発揮して、さらに企業舎弟による合法的経済活動の活発化を推し進めていく。
金融、土木関係、港湾関連の荷役作業は元より、特に公共事業への参入を画策して、市政、県政への食い込みを図り、それは、まんまと成功する。
東北一帯とまではいかないまでも、日本海側の主要な県に影響力を及ぼすまでに至り、阿宗会の地位は、もはや盤石のものと成りつつあった。
しかし、火種がないわけでもなかった。
実は、4代目会長の指名には、入れ札を求める声が多かった。
元は、テキ屋の相互扶助団体として立ち上がった組織である。
江戸時代よりも古くから、神事祭事による生業を是としてきた集団には、今の組織の体質を快く思わない者も多い。
初代宗形の影響力を求める声も根強く、入り札による決着では、宗形閥が有利かと思われていた。
だが、3代目会長芽室は、その声を血の粛清により封じ込める。
そして、後継者として自分の右腕である速見を、会長の座に据えることに成功するのである。
阿宗会は、その当初の理念を離れて、まったく違う組織になった。
芽室、速見による恐怖支配は、確固たるものとなり、もはや揺るぎようがない。
しかし、現体制に反骨する者がいないわけでもなかった。
如月和磨。
旧宗形閥の雄。
武闘派として名高い阿宗会にあって、さらに最強の組を作りあげた男。