歪曲-4
ミナは、なにも聞きたくなかった。
なにも見たくなんか、なかった。
すぐにでも、この場から逃げ出してしまいたかった。
それができなかったのは、膝がガクガクと震えて、今にも倒れそうだったからだ。
それだけの強い恐怖がミナを襲っていた。
「聞きなよミナ!お願いだから、聞いて!」
チカが、ミナの手を把った。
表情に必死さがあった。
ミナの耳を塞ぐ腕を、強引に引き剥がした。
「ママはね、そのとき、こういったんだよ!あんたさえいなければ!あんたなんかさえ産まなければ!って、わたしをにらみながら、そういったんだよ!」
チカの瞳が涙に潤んでいる。
上目遣いに見上げるミナの瞳にも涙が溢れていた。
「なんでかわかる?!ねえっ!?なんでママがそんなこといったのか、わかるっ!?
教えてあげようか。わたしがママの代わりをするようになったからだよ!
わたしが使えるようになったからだよ!
わたしはね、そのときパパに犯されながらママを見ていたんだよ!
まだ5歳のわたしを、パパは犯してたんだよ!
まだ5歳だよ!そんなときから、わたしは突っ込まれてたんだよ!
ねえっ!わかる?!だから、ママは売られちゃったんだよ!」
慟哭だった。
痛いほどにミナの腕を握っていた。
すべてを吐き出すように叫んだチカは、崩れるように膝をついた。
ミナの腕は握ったままだった。
「わたしのせいで、ママは売られちゃったんだよ……。
でもね、わたし、パパのこと……憎めなかったんだ……。
パパのことを、嫌いになることができなかった……。
ずっと嫌だったのに、顔では笑って、パパの言いなりになってきた……」
チカの瞳から、ポロポロと涙が溢れ出た。
「パパはね……わたしのこと、離してくれないんだ……。
すっごくひどいことをするくせに、わたしのこと、ずっと抱きしめて、
お前が一番大事だって、笑いながらいうんだ……。
すっごくやさしい顔で、お前が一番の宝物だよ、って頭を撫でてくれるんだ……。
全部嘘だって、わかってるのに、どうしても、あのひとから逃げ出すことができないんだ……。
ミナぁ、あたし、おかしいのかなぁ?……。あたしって、バカなのかなぁ……。」
チカは涙を流しながら、笑っていた。
冷たい床に、チカとミナの涙や鼻水がたくさん落ちた。
落ちた水滴は、溶けあうようにひとつの水たまりとなって広がっていった。
チカは、床に手をつき、声を押し殺すように泣いていた。
声は次第に大きくなり、やがて、我慢できないようにチカは憚らぬ声で泣きはじめた。
無垢な子どもが、夜を怖がるような遠慮のない泣き方だった。
ミナは泣くことも忘れて、意外な光景を潤んだ瞳で見つめていた。
チカが大声を上げて泣くなんて思わなかった。
チカほど涙の似合わない女の子はいない。
クラスのなかで孤立し、陰湿なイジメにあっても、誰も恐れたりしなかった。
露骨な嫌がらせをされ、同級生からひどい嫌みをいわれても、最後には必ず言い負かして、泣かした相手を鼻で笑うような不遜な女の子だった。
そのチカが、ミナの目の前で大声を上げて泣いている。
チカに、そんな悲しい過去があったなんて知らなかった。
いつも生意気そうに向けていた瞳は、弱い自分を隠すための虚像だったのだと、そのときになって、初めて気がついた。
怖さはまだあった。
身体も震えていた。
涙はいつまでも止まらない。
でも、自然と腕は伸びていた。
目の前で泣きじゃくるチカが、ただ、哀れでならなかった。
チカの肩を抱き寄せた。
「ミナ……助けてよ……。お願いだから、助けてよ……」
どうしていいかわからぬように、藻掻き苦しみながら、チカがしがみついてきた。
ふたりは抱き合いながら、床の上に倒れ込んだ。
互いをしっかりと確かめるように抱き合ったふたりは、子どものように泣いた。
どうすればいいのかなんて、わからなかった。
ただ、ひたすらに泣くだけしかできない、ふたりだった。