第一章-1
第一章
四月二日、私は上海市閔行区蘭坪路百六十号に久野家の長女として生まれた。そして彩香と命名された。生家の最寄り駅は上海軌道交通五号線の江川路駅である。なお上海軌道交通は地上走行区間も少なからずあるが、上海では一般に地下鉄と呼ばれている。そこでこの物語でも、地上走行区間も含めて地下鉄と呼ぶことにする。
小学校では私は成績が抜群に優秀で常にトップクラスだった。ただ、少し他の子たちとは違った面もあった。
例えば五年生の時、理科の実験か何かで蝋燭を使うことがあった。その時、私はちょっとした好奇心で、蝋燭の蝋を自分の手の甲に垂らしてみた。
(熱い!)
チクッとする熱さというか、痛さのようなものが皮膚を襲った。しかし皮膚の内側では、その痛さが快感となって全身に伝わって行くのを感じた。私はなかば恍惚として、たらたらと手に蝋を垂らし続けた。
「うわっ、SMだ!」
それを見た男の子が叫んだ。しかしその頃まだ私はSMという言葉を知らなかった。サディズムだのマゾヒズムだのといった概念も知らず、もちろん自分がマゾヒストであるなどと自覚できようはずもなかった。
六年生になると、担任の鈴木先生が私に同済中学を受験するように持ちかけてきた。私立の完全中高一貫制の進学校で、高校卒業生のほとんどが北京大学をはじめとする重点国立大学や、輔仁大学などの有名私立大学に進学する超エリート校だ。
模擬試験の成績から言っても、偏差値から言っても、決して無理な志望ではなかったし、母も乗り気のようだった。それに何より、区立小学校の画一的な教育に嫌気が差していた私自身が一番乗り気になった。
私は成績もよかったが、四月生まれのためか体の発育も早く、乳房が膨らみ始めるのも、陰毛が生え始めるのも、クラスの他の子よりも早かった。
秋になると修学旅行で南京へ行った。旅館で風呂に入った際、私の陰毛がもう大人並みにふさふさと生え揃っていることがみんなの話題になった。風呂でも、脱衣場でも、さらには部屋に戻ってからでも、
「マン毛見せて」
「マン毛見せてよ」
とみんな私に寄って来る。私はタオルで前を隠しながらも、ちらちらと見せてやったりした。その度にみんなが歓声を上げる。
私はストリッパーかヌードモデルか何かになったような気がした。それは私のプライドを傷つけ、私に恥辱と屈辱をもたらしたが、同時にその奥でひしひしと喜悦を味わっているのも感じた。もちろん見せてやったのは女の子ばかりだったが、もし男の子に要求されても、私はちらりと艶めかしく見せてやっていたのではないだろうか。
恥ずかしいこと、惨めなこと、情けないことを強制されているという感覚、逃げたくても逃げられないという状況に性的に興奮して喜悦を覚える。そんなマゾヒストとしての私の一面が、早くも垣間見れたような経験だった。
冬休み、私は鈴木先生の強い勧めで、徐家滙にある能研という学習塾の冬期講習に通うことになった。
能研は上海でも有名なエリート学習塾で、冬期講習を受けるだけでも入塾試験があった。そしてその成績によって能力別クラス編成になるのだ。その結果、私は一番上のクラスに入れた。
教室内も指定席だったが、これは成績順ではなく五十音順だった。そのため、私の隣の席は久野香織という子、前の席は熊本という男の子になり、休憩時間などにはこの三人でよく話をするようになった。ちなみに久野香織とは同じ久野姓だが縁戚関係は何もなかった。
「私のお姉ちゃんは桃園女学院中学に通ってるの」
久野香織は言った。桃園女学院は、通称ピンク女学院、または略してピン女とも呼ばれている私立の完全中高一貫制の女子校である。
「制服がなくてね、服装も髪型も化粧もまったく自由なのよ。校則がないのよ」
「それ、いいね」
「じゃ、何をしてもいいってこと?」
と熊本。
「うん、法律に反しないかぎりはね。お姉ちゃんなんか、まだ中学生のくせに髪を茶髪に染めて、夏はTシャツにショートパンツにサンダルで通学したりしてるよ」
こんな話を聞いているうちに、私は知らず知らず桃園女学院に憧れるようになっていった。だが十二月の段階では、これはまだ明確には意識していなかった。
能研の冬期講習は、前半は十二月三十日まで行われ、大晦日と元旦と正月二日が休みで、正月三日から後半の講習が予定されていた。