第一章-2
大晦日の夜、NHKの紅白歌合戦を見たりしていて、私はもう一度久野香織と会いたくなった。
(いや、年が明けて正月三日になればまた会えるわ)
この思いは私を狂喜させた。この時、私は自分が久野香織に恋をしていることを悟った。そしてこの経験で私は自分が正真正銘のレズビアンであることを確信した。今までも薄々感じてはいたことだが。
しかしいかんせんまだ小学生のこと、そんな気持ちも打ち明けられないまま能研の冬期講習は終わり、学校の三学期が始まった。この頃、突然私は同済中学ではなく桃園女学院中学を受験したいと言い出した。
「桃園のあの自由な校風が気に入ったのよ。ねえ、お母さん、私を桃園に行かせて」
校風に憧れたというのは嘘ではない。しかし桃園女学院へ行くことによって、久野香織に好かれたいという気持ちも、たとえ無意識的にせよあったかも知れない。
だが桃園女学院は同済中学に比べるとツーランクもスリーランクもレベルが落ちた。しかもこちらは共学ではなく女子校だ。当然母は猛反対した。そして鈴木先生はそれ以上に激しく反対した。
「同済を受けられるほどの学力のある子がなんでピン女なんかへ」
「お前はもう大学進学を諦めたのか」
「学力不相応な学校へ行って自分で自分を貶めるようなものだぞ。考え直せ」
しかし反対されればされるほど、それをやりたくなるのが私の性分だった。私はいつになく頑と意地を張った。そしてそんな私に母も鈴木先生もついに折れた。
「まあ、同済でビリでいるよりも桃園でトップでいる方がいい大学に行けるかもね」
などと言って。
かくして久野香織は私の人生を大きく変えた人物となった次第である。
三月、私は予定どおり桃園女学院中学を受験した。そして何の問題もなく当然のごとくに合格できた。しかも首席入学だった。しかし私にはこれも当然のように思えた。同済中学を受けるように勧められていた者が桃園女学院までレベルを落としたのである。首席入学くらいできなくてどうするのだ。
桃園女学院は上海市長寧区、地下鉄二号線の婁山関路駅を下りて古北路を少し北へ行った所にある。婁山関路駅は三号線または四号線から中山公園駅で乗り換えて一駅目。比較的便利な場所だったが、中山公園駅での三号線または四号線から二号線への乗り換えにはかなりの距離を歩かされた。
桃園女学院は想像していた以上に本当に自由な校風の学校だった。服装や髪型や化粧が自由というだけでなく、勉強するしないも自由で、授業中に公然と寝ていたり弁当を食べていても何も言われなかった。ただ私語だけは他の生徒の邪魔になるので注意された。しかしその場合でも、教室を出て、外で私語すればそれで何の問題もなかった。
もちろん勉強するのも自由で、しかも教員には優秀な教師陣が揃っていたから、真剣に勉強する生徒にはそれ相応に応えてくれた。つまり伸びるのも落ちこぼれるのも自由というわけだ。
桃園女学院は高校も中学と同じ敷地内にある。完全中高一貫制のため、高一、高二、高三を、それぞれ四年生、五年生、六年生と呼んでいたが、同じ学校で学んでいる高校生たちがものすごく大人に見えた。
中学から部活が始まり、私は合唱部に入った。合唱部は火曜日と木曜日の放課後に通常練習があり、時々土日に強化練習が行われた。また部活は中高いっしょにやり、六年生は大学受験で忙しいので、主に五年生すなわち高二の生徒が部活を主導した。
合唱部では私は特に北見美鈴という子と親しくなった。同じ一年生に北原泉美という子もいたが、一年生の時はまだ泉美には何の印象も抱いていなかった。
五月の連休の最終日、私は桃園女学院合唱部として上海合唱祭に出演した。これは私が初めてステージ衣装を着て、ステージに立って歌った機会で、アイドル歌手か何かにでもなったかのような錯覚に陥った。その後、私は合唱コンクールや文化祭などでだんだんとステージにも慣れていった。