DEPARTURES-1
薄汚れた廊下を、天井から流れるアナウンスにしたがって進む。途中、何度も小さな段差にキャリーのタイヤが引っ掛かってしまい、その度に僕はつんのめるように足を止めた。 同じ方向を目指す人の波に押されて、よろめきながら再び歩き始める。
足取りが重いのは、荷物のせいばかりでなかった。
イタリアのローマへ在住して、二年が経つ。その間、僕が日本の地を踏むことは一度もなく、今回は実に二年ぶりの帰国となる。そして、それはつまり、彼女と顔を合わせるのも二年ぶりということでもあった。
相河春菜。
彼女は今頃、どうしているだろう。僕の手紙が彼女の手元まで届いて、きちんと読んでくれたのなら、ひょっとすると僕がこれからくぐるゲートの先で待っていてくれるかもしれない。しかし、その可能性は極めて低いものだということを、僕はすでに一カ月前、彼女から送られてきた手紙の文面を目にした時点で知っていた。いや、それよりも、もっと以前、僕が恋人を残して旅立ってしまった瞬間、何もかも終わってしまっていたのかもしれない。僕が、彼女より夢を選んでしまった、あの日で。
あれはまだ、僕がイタリア行きを春菜に伝える以前。二人のアパートでの事だ。ソファーで仰向けになりながら雑誌を読んでいると、背中を向けていた春菜から、音程の外れた鼻歌が聞こえてきて、僕は顔をあげた。
「聴いたことのある曲だ」
僕が寝ていると思ったのか、春菜は小さく声をもらすと洗濯物をたたんでいた手を止めて、振り返った。
「名曲なのだよ。裕哉君」
腰に手をあて、胸をはって彼女が言う。
僕は体をくの字にして吹き出した。
「別に君の曲じゃないだろ。なに自慢しているのさ。で、誰が歌っているの?」
春菜はアーティスト名を答えると、再び前へ向き直って、同じメロディーを口ずさむ。 そのメロディーに合わせて、彼女の背中がかすかに揺れていた。白地に鮮やかなピンク色でデザインされたチェックの長袖シャツ。緩くウェーブがかった栗色の長い髪の毛は、一本に束ねられている。彼女の後ろ姿は僕のそれと比べて、どれだけ小さく、頼りなさそうに見えるだろう。僕が、ここからいなくなると知ったら、彼女はどうするだろう。
そう思った瞬間、胸の奥に、尖ったものでえぐられるような痛みが走った。形容しがたい荒々しい感情が、嗚咽のように喉元まで、せりあがってきては僕の目頭を熱くする。視界を水っぽいものが覆い、なにも知らない春菜の背中を歪ませる。
僕には夢がある。だけど、それを叶えるには、どうしても海外で勉強する必要があった。しかし、それを知れば、きっと春菜は泣く。ただでさえ泣き虫な彼女だ。どれだけ取り乱すか、想像さえつかない。僕は海外行きを決めてから、そのことばかりに頭を悩ませていた。だから僕の決意を耳にした春菜が、あんな表情を見せたことを僕は心底、驚いた。
春菜が最後に選んだ顔。
それは、どこまでも慈愛に満ちた、優しい笑顔だった。
彼女から届いた最後の手紙の内容は、不安定な今の僕らの関係や、常に彼女につきまとう孤独と寂しさ、会いたい時に会えない苦しみ、そして先の見えないことへの不安が、一句一句、言葉を慎重に選びながら書き連ねてあった。それは、いつも明るさを表に出し、負の感情は胸の奥底へ隠していた春菜が見せた初めての弱さだったかもしれない。もちろん僕も慌てて返事を書いた。焦燥感に背中を焼かれながら国際電話もし、自分の気持ちをありのままにぶつけた。
お前を迎えに行くよ。すぐに行く。だから、空港で待っていてほしい。これから荷物をまとめるから。一緒にいよう。今度こそ、僕は君のそばにいるから。一緒にいよう。
帰国の日時を伝え受話器を置くまで、春菜はほとんど喋らなかった。彼女が声を殺して泣いている姿が脳裏に浮かび、やりきれなかった。
ゲートが近い。あそこをくぐった先に僕の未来がある。荷物を持つ手に汗が浮かんだ。鼓動は早鐘を打ち、こめかみのあたりが脈打ってうるさい。神様。祈りながら、ゲートをくぐる。
神様、どうか。
視界が一気にひらけた。どこへ首をねじっても人であふれている。