『月陽炎~真章・銀恋歌~』-15
16 悠志郎が有馬神社に来てから数日が過ぎた。
その日の仕事を終えた悠志郎は、いつものように鮮やかな夕陽に誘われて、社務所の裏手を上がったところにある土手までやって来た。
つい先日見つけた場所だが、ここからだと街が一望できるのだ。
ここに来た時に降り立った駅や、そこから延びる路線。風にそよぐ稲穂。夕陽に照らされた街並みなどが見事な景観を作り出している。
この数日、ここで暮れゆゆく街を眺めるのが悠志郎の日課になっていた。
悠志郎は土手に腰を降ろすと懐からハーモニカを取り出し、両手で押さえて口にくわえる。
これも毎日のことだ。
ハーモニカを吹いていると不思議と気持ちが安らぐ。
たとえ哀しくても腹立たしくても、すべてが消え去ってしまうようで心地よかった。
子供の頃、父親からもらった古いものだが、やはりこんな街並みが見える場所で、根気よく上手に吹けるまで教えてもらった記憶がよぎる。
あちこち傷ついてしまってはいるが、悠志郎の数少ない大切なもののひとつだった。
さすがに家の中で吹くことは憚(はばか)られたが、ここなら誰に遠慮する必要もない。
悠志郎は大きく息を吸い込み、静かな曲を奏でていった。
『……ふう』
一曲吹き終わった時、悠志郎は背後に人の気配がするのに気付いた。
振り返ると、そこには柚鈴の姿がある。
『柚鈴さん……?』
『綺麗で……それでいて力強い。でも、どこか少しだけ寂しそうな曲ですね』
柚鈴はそう言いながら、静かに一歩……また一歩と確かな歩みで近寄ってくる。
あれから彼女は何度も悠志郎に近付こうと努力を繰り返していたが、今日はいつもよりも近くまで来ている。
『柚鈴さん……大丈夫ですか?』
『えっと……あ、あの……今日は……大丈夫かもしれません……あはは……』
柚鈴は苦笑いしながら、とうとう悠志郎の目の前までやって来た。
初めて間近で見る柚鈴の顔は、緊張と喜びとが入り交じった複雑そうな顔をしていた。
『あ、あはっ……まだ……かなり……ドキドキしてます』
『無理はしない方がいいですよ』
悠志郎には想像もつかないが、柚鈴にとってはかなり勇気のいることのはずだ。
だが、彼女はぶるぶると首を振る。
『いやっ!だって……私……このまま遠くからしか悠志郎さんと話せないなんて……そんなのいやだから……早く慣れなきゃ……』
うっすらと涙を浮かべながら、柚鈴は揺れる瞳で真っ直ぐに視線を向けてくる。
悠志郎は、その懸命な瞳から目をそらすことができなくなった。
彼女の瞳の奥に、遠く懐かしい……柔らかい何かを感じたような気がしたからだ。
『あ、あの……もう一曲……吹いて頂けませんか?』
柚鈴が僅かに震える声で言う。
『なにか、もう少しだけ……そうしたら、勇気が出そうで……』
『お安いご用です』
悠志郎は柚鈴に頷き返すと、もう一度ハーモニカをくわえて曲を奏でた。
優しい旋律に、柚鈴の表情が穏やかになっていく。
ぎゅっと胸の前で重ねていた手、そして肩や全身からも力が抜けていくようだ。
こんなことで柚鈴の力になれるなら、ずっと吹き続けてもいいと思う。
頑張っている小さな少女の手助けができるなら……と、悠志郎は目を瞑って力一杯ハーモニカを奏で続けた。
……やがて曲が終わり、俯いていた顔をそっとあげると、
『え……?』
すぐ目の前に柚鈴の姿があった。
銀の髪は夕日を浴びて茜色の衣を纏ったように美しく輝き、悠志郎の目を捕らえて離さない。
柚鈴は薄く涙を浮かべながら、にっこりと微笑んでいた。
『悠志郎さん……ありがとう……おかげで……やっとここまで来れました……』
『頑張って演奏した甲斐があったというものです』
『嬉しいです……』
間近に見る柚鈴の微笑んだ顔は、今まで見たどの表情よりも可愛かった。
『もう悠志郎さんが怖くない……だから、側でいっぱいお話できます』
『廊下ですれ違っても逃げずに済みますね』
『はいっ』
柚鈴はくすくすと笑いながら、そっと悠志郎の側に座り込んだ。
本当に慣れるにはまだ時間が掛かるだろうが、それでもかなりの進歩である。
『ここは……私のお気に入りの場所なんです。夕焼けが綺麗で……』
『ええ、本当にいい眺めだ』
悠志郎が相槌を打つと、柚鈴は眼前の風景に視線を向けた。
『私、ここから色々なところを見るのが好きなんです。汽車が来たなとか……車が通ったなとか。胡麻粒みたいに小さいけれど、行き交う人たちもたまに見えます』
そこまで言って、柚鈴は不意に声のトーンを下げる。
『でも……時々なんだか泣きたくなるくらい悲しくなって……』
『………………』
『あの汽車は、あの車は、あの人たちは何処へ行くのでしょう。あのレールは何処へ続いているのでしょう……。ずーっと、ここから眺めては、そんなことを考えるんです』
『籠の中の鳥……ですか?』
悠志郎が問うと、柚鈴は少し躊躇いながら頷いた。