森の穴にて-1
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――昔々、貧しい国の、とある森の奥に。
うっそうと茂る草木に隠された、深い深い穴があった。
その近辺に住む人々が知りながら、決して公に口外しないその場所は『口減らしの穴』と呼ばれていた。
強欲な領主の納めるその地では、税は重く農民の暮らしはどこまでも貧しい。よほどの豊作の年で、なんとか食いつなげるほどだ。
当然ながら、少しの日照りや水害で、餓死者が続出した
。
一家全員が餓死するよりはと、彼らは苦渋の決断を迫られた。
産まれたばかりの赤子や、怪我や病気で満足に動けなくなった者、年老いて働けなくなった者……口減らしのためにそれらを、森奥の穴へ捨てることにしたのだ。
穴は深く、底には瘴気のような薄紫の煙が常に立ち込めて、どうなっているかもよく見えない。
何もわからぬ赤子はそのまま放り込まれ、死を恐れて抵抗する者は、縛ったり手足の腱を切ってから投げ落とされた。
何十年も、穴は活用された。
穴の底には、無数の死体が折り重なった。
血と汚物と腐敗した肉の臭気とが入り混じり、また新たな人間が降ってきては、その量を増やしていく。
死者たちの嘆きと悲しみと怒りも、穴の底に溜まり続け、瘴気と混ざりあいその濃さを増していく。
そしてある日、痩せ細った子どもが投げ込まれ、父母を呼びながら息絶えた瞬間だった。
穴の底に渦巻いていた瘴気は、ふと、単なる有毒な気体にすぎなかった自分が『命』を持てたのに気づいたのだ。
空気よりも重いせいで、今までは穴の底に溜まっているしか出来なかったけれど、『そうしたい』と思えば、軽々と穴の上まで飛び上がれた。
地上に出た瘴気はすぐ、自分を入れる器を探し始めた。気体のままでは、せっかく手に入れた命もほどなく霧散してしまうことを本能的に悟ったのだ。
なんでもいい、肉体を手に入れなくては。
しかし、見渡した森の中には誰もいなかった。
親は我が子を投げ捨てると、すぐさま立ち去ってしまったし、瘴気の発する不穏な気配を察知した鳥獣も、いち早く逃げていた。
瘴気の見渡した先に残っていたのは、ただ一匹の虫だけだった。
花びらのように可憐な真っ白い蟷螂は、いつも獲物を捕らえる時のように、花の姿に擬態して危険から身を隠そうとしたのだろう。薄紫の瞳も、花芯そっくりだ。
瘴気はあっさりとその小さな身体を捕らえ、取り込んで我が物とした。
そして――悪魔となった瘴気は、花びらのように真っ白な肌と、薄紫の瞳をもつ人の姿となっていた。
肉体を手に入れた瞬間、人間の姿に変わってしまったのは、大量の人間の執念から生まれた存在だからだろう。
なおかつ、本来は蟷螂のものだった身体は、自由に両腕を鋭い鎌に変化させることも出来た。
暗い夜の森の中で、一人きりの悪魔は考え、まずは飢えを満たすことにした。
自分が強烈に飢えていることだけは理解できた。何かが欲しくて、頭も心臓も足先までも、ヒリヒリ苦しくてたまらない。
飢えているのは道理だ。
飢え死に寸前で殺された者達から、自分は生まれたのだから。