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ブックエンドと君の名前
【純文学 その他小説】

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ブックエンドと君の名前-7

 しかしもちろん、ふたりに文句を言えるほどの食欲的な猶予はなかった。女の子の胃袋は世界の崩壊が近づいているとも知らず何らかの到来を切実に要求していたし、中澤の胃袋もだいたい同じことをしていた。ふたりはフォークでその肉の切れ端を突き、白身魚のフレークを裂き、桃のシロップを最後の一滴まで飲み干した。それからぬるくなったビールをコップ一杯ずつ飲み、空腹感はひとまずどこかへ姿をくらましたようだった。上等じゃないか、と中澤は思った。この三日の内にさえ飢えて死ぬ人間はたくさんいるのだ。

「溺死かな」

 食事が終わると女の子は呟いた。中澤は台所でスチール・フラスコからタリスカーをグラスに移している最中で、それを持ってテーブルに戻った。

「三日後のこと?」
「大きな津波がくるんでしょう? 昔の映画でそういうのを見たわ」
「アステロイド……ディープ・インパクト……アルマゲドン……」

 中澤は記憶の中から隕石と津波の出てくる映画をいくつか引っ張り出した。でもそれ以上は出てこなかったし、女の子のほうもまるで聞いていないようだった。

「洗濯機に放り込まれたみたいにぐるぐる回って水をいっぱい飲んで、苦しんで死ぬのよ」
「内臓破裂、圧死」、と中澤は訂正した。「たぶん即死に近いと思う。ニュースの話なんかから想像するとね。何しろ馬鹿でかい石が出鱈目なスピードで突っ込んでくるんだ。震度八百くらいの衝撃がある。なんにせよ隕石がぶつかったときの衝撃で人体は空中に放り出され、大地に強く打ちつけられる。苦しむ暇もないよ。津波が来る頃には陸上生物はみんな粉々になってる」
「そういうのってどう思う?」と女の子は訊いた。
「どうって?」
「溺死であれ圧死であれ、体が元気な内に死んじゃうことについて」
「分からない」、中澤は正直に言った。「そういうのって、死んでみないことには経験できないからね」

 中澤は時間をかけてタリスカーを飲み干し、そのあいだ女の子は一言も喋らず、何かを思いつめるようにして膝をかかえていた。肩まで伸びた真っ直ぐな黒髪は真っ直ぐ中澤の目に入り、中澤にはそこから心を逸らすことができなくなっていた。彼女の髪の毛はきちんと梳かされ、暗闇がもう少しばかり深まればたちまちそこへ飲み込まれて消えてしまいそうなほど細かった。それでなくとも女の子の姿は全体的にどこか危うく、その存在を外的な力によってかろうじて保たれているというような弱々しい印象があった。それが中澤の目を奪って離さなかった。

「君は、図書館で何をしていた?」

 と中澤は訊いた。

「本」、と女の子は答えた。「本」

 女の子の言葉には、続きがなかった。『本』。中澤は出窓に並べたウィスキーの瓶を蝋燭で照らし、カティーサークを見つけてそれをグラスに注いだ。テーブルに戻ると、女の子はたたんだ膝に顔を埋めたままささやくような寝息をたてていた。中澤は彼女の驚くほど軽い体を横に寝かせ、毛布をかぶせてからひとりでウィスキーを飲んだ。

「本」

 と中澤は呟いてみた。『ほん』。改めて口にしたその呟きは、単語というよりは何らかの擬音語のように中澤の耳には聞こえた。呟きは夜の純粋な暗闇に飲まれ、ばらばらに解けながらどこかへ消え、終わりは二日後に迫った。


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