ブックエンドと君の名前-5
図書館は夕暮れの日光を半身に受け、もともとはその体がだいだい色であったことを思い出したかのような照らされ方をした。一方で陽の当たらない陰となる部分は息をのむばかりの漆黒に覆われ、その足元に長く漆黒の続きを垂れ流していた。鮮烈な夕日が様々な事物の両面性を暴き出しているように中澤には見えた。それは陰と陽であり、光と影であり、存続と崩壊であった。夕日はそれらの性質が相容れぬことを地上に教え、まさに光と影とをふたつに引きちぎらんばかりの力で訴えかけているのだ。
まだ崩壊はしていない、と中澤は思った。少なくとも今はまだ、紛うことなき存続のさなかなのだと。
中澤が家に着くころには街はすっかり暗くなっていた。夕日は沈没の間際に、テーブル・クロスを引っ張り込む要領で光源をすべてどこかへ持ち去ってしまった。ぼんやりとした古い水銀灯の灯りを除けば、地上に光と呼べたものは一切残っていなかった。どの民家も深く眠り込んでいた。
つけっぱなしにしてあるはずの換気扇が回っていないことに、家のドアの前で中澤は気が付いた。街中の灯りが死んでいるのは、電気の供給がついに止まったせいであることが中澤にも察せられた。ライトグリーンの作業服を着て、お揃いの帽子をかぶって、せっせとみんなに電気を届けたがるひたむきな電力会社職員は、崩壊の三日前の夜にしてひとり残らず居なくなってしまったようだ。それが正しい、と中澤は思った。最後くらいは自分だけのことを考えていいんだ。全然悪くない。中澤は電気が使えないことに付随するはずの様々な不都合を想定しながら、ドアノブに手を伸ばした。
しかしドアノブに手をかけたとき、中澤は人の気配をすぐ近くに感じた。かすかに足音が聞こえたのだ。それほど近くないのかもしれないが、あまりに暗いせいで、そういった感覚にはやや敏感になっていた。間違いない、おそらくは垣根の裏に誰かがいる。息を潜めてこちらを窺っている。
中澤の心臓は胸の中で、息苦しくなるほど激しく鼓動した。何せ今はすごく治安が悪いのだ。残り三日の人生を健全に過ごそうと考える人間はそれほど多くない。平坦な人生を歩み続けた中澤でさえ酒屋からスチール・フラスコとウィスキーとコルク抜きを窃盗してきたのだ。彼が世界一の悪人であるとすれば話は別だが、恐れ多くも中澤はそんなに極端な悪人じゃない。本当に極端な悪人は何をしでかすか分からない。興味本位で人を殺すかもしれないし、中澤のポケットに放り込まれたささやかな窃盗品を強奪するかもしれない。それは分からない。
中澤は酒屋から盗んできたコルク抜きを右手に持って格闘に備えた。電気のない世界はあまりに暗かった。しかし中澤には恐怖の大きさや暗闇の深さについて考えている余裕はなかった。相手が長物を持っていることを想定して間髪置かず近づき(やはり垣根の裏には人影があった)、左手でその人物ののどを掴み、右手に持ったコルク抜きを目元に突きつけ、石造りの垣根に体ごと押し付けて相手の動きを奪った。一連の動作はすんなりと相手を拘束するに至った。しかし相手はバットもパイプもナイフも持っていなかった。丸腰だ。危ういほどに首は細く、力は驚くほど弱い。女だ、と中澤は思った。
「うちに何か用が?」
と中澤は訊いた。女は無抵抗に首を振り、そういうんじゃないわ、と言った。中澤はその小さく細い声に聞き覚えがあった。図書館で顔を突っ伏していた女の子だ。
「ごめんなさい。でも泥棒しにきたわけじゃないわ。何か食べ物があったら分けて欲しいんだけど」
「どうして図書館でそう頼まなかった?」
と中澤は念を押して訊ねた。
「あのときはまだお腹がすいていなかったし、いずれお腹がすくことになるなんて考えてなかったのよ」