ブックエンドと君の名前-12
プレーヤーも生きてるね、オーケー。一曲目は『スカボロー・フェア』。冬が近づくとこれを聴きたくなるんだ。いい曲だよね。歌詞がまたすごくいい。もちろん和訳のカードを見なきゃ理解不能なんだけどね。ところで今はヒットチャートの情報なんかまったく入ってこないから、僕らの好きなものだけを流すことにする。つまり世代的に言って、ちょっとばかり古いものが中心になると思う。いいね? でもリクエストは無理だし、クレームも受け付けないよ。
「パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム」、中澤は擦り切れかけたレコードのような音質の曲に合わせて呟くように歌った。
掛け時計の針は十一時を指していた。部屋に女の子の姿はなく、暗闇もなく、ウィスキーの匂いだけが昨夜からずっとそこに居残り中澤とともに最後の一日を迎えた。
中澤は電池で動くポータブル・ラジオの雑音で目を覚ました。彼が寝ているあいだに誰かが――もちろんそれはあの女の子であるはずだけれど、ラジオのスイッチを入れたのだ。それは女の子の残した何らかのメッセージであるように中澤には思えたが、単に隕石の情報を知りたくてひとりでチャンネルを回し、諦めてそのまま部屋から出ていっただけかもしれない。たぶん後者だな、と中澤は思った。ラジオのスイッチを入れていくという行為自体には、何ひとつメッセージ性が付随していないからだ。
『スカボロー・フェア』の歌詞が途中でわからなくなると、中澤はグラスに残ったウィスキーを台所に捨て、生ぬるいミネラルウォーターで顔を洗った。窓を閉め切っていたせいで部屋の中にはむっとするような熱気がこもり、胃袋の底に残ったウィスキーのこともあって中澤は重い吐き気がした。最後の一日なのにな、と中澤は思った。ひとりで熱気や二日酔いと闘いながらそれを迎えることになるなんて、ひどい話だ。
ラジオから流れる曲はその鼓膜を削り取るような調子のまま『いとしのレイラ』に切り替わった。イントロの特徴的なギター・リフが繰り返される中で、DJがその曲にまつわる自分の思い出話をし、エリック・クラプトンが唸るような声で歌い始めると聞き入るようにして黙った。中澤はそれを片耳で聴きながら、女の子について考えた。
違うのよ、と女の子は言った。図書館で名前の話をしていたときだ。中澤には何がどう違うのかまったく分からなかったが、とにかく中澤は名前について自分の意見を言い、結果としてそれが彼女を沈黙の底に沈めてしまった。要するにそういうことだった。
……。
知ったこっちゃない、と中澤は思った。考えてもみれば、図書館で偶然出会ったばかりの女の子に執着する必要なんてまったくないのだ。状況がいくぶん特殊で、出会い方がいくぶん複雑であったために、それだけ印象深く感じているだけだ。黙りたいのなら黙ったらいい。出て行きたいのなら出て行けばいい。そんなこと僕には関係ない。中澤はもうひと口だけウィスキーを飲みたくなったが、ウィスキーの匂いのことを考えると吐き気が増した。それで諦めて、いつものように散歩をすることに決めた。
太陽は最後の力を振り絞って大地に強い光を叩きつけていた。空にはひとかけらの雲も見当たらず、メタリックなまでに晴れ渡った単色の青を敷きつめていた。中澤はアスファルトの地面を踏んで歩き、ときどき枯葉の砕けるからっという音がした。枯葉は女の子の着ていた上着のような色で、女の子の着ていた上着は枯葉のような色だった。中澤は彼女が穿いていた濃いグリーンのロングスカートのことを考えながら、ひとりで長い街道を歩いた。どこまでも歩いてやろう、と中澤は思った。どこまでも歩いて、歩き疲れてそのままどこかで眠るのだ。たくさん汗をかいて体内からアルコールを追い出し、飲みたいウィスキーの銘柄を数えながら服を脱いで、膝を抱えて、産まれたときの格好で他の多くの人間とともに死ぬのだ。