ブックエンドと君の名前-10
「違うのよ」、と女の子は言う。
「違うって?」、と中澤は訊き返す。
女の子は首を振る。今度は強く、明確に振る。
女の子はそれ以上は何も言わなくなった。女の子の言葉の続きは、沈黙の渦に飲み込まれたようにぷつりと絶え、二度と浮かび上がってこなかった。中澤は読書室の中から少しずつ失われていく明かりを眺めながら、今日が終わり、明日が終わることについて考えた。そして次にやって来る一日について考えた。
陽が完全に姿を消し、読書室の中からあらかた明かりが運び出されてしまうと、中澤は女の子を連れて外に出た。そろそろ食事のことを考えないといけないし、貴重な時間を暗い図書館の中で磨耗させるというのも気が進まなかった。無限に近い時間のある平和な過去とはわけが違うのだ。
「構うもんか」、と言って、中澤はスーパー・マーケットのシャッターの鍵を蹴り壊した。女の子は目を丸くしてそれを眺めた。「どうせ持ち主なんかいないんだ」
中澤は店内を歩き回り、手提げに缶詰や水を入れた。電灯の直線的な光の末端はあちこちを駆けずり回り、酔っ払った俊足の魂みたいに店内を出鱈目に徘徊した。そのあいだ女の子は何も言わずに中澤について歩いた。しかし決して気を悪くしている様子ではない。喋るべき言葉をどこかで落としてきてしまい、それで何を言っていいか分からないというふうなだんまりなのだ。中澤が試しに女の子を菓子パンの売り場へ連れていくと、彼女は黙って栗の入った菓子パンを手提げに追加した。案の定、食欲はあるらしかった。
「今日、ひとつだけ分かったことがある」、と中澤は微笑んで言った。「きっと君は栗が好物なんだな」。女の子はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。中澤は乾物食品の売り場から甘栗を見つけて手提げに追加した。
家に戻ると中澤はミネラルウォーターで食器を洗い、皿に缶詰を空けてパンと一緒にテーブルに置いた。昨日よりはずっと食事らしい体裁をとっている。中澤は女の子と一緒にそれを食べ、食後に果物と、甘栗をむいて食べた。中澤が栗を五つ食べ、残りはすべて女の子が食べた。中澤はウィスキーを並べた出窓からマッカランのボトルをひとつ持ってきて女の子に勧めたが、女の子は首を振った。中澤はそれをひとりで飲んだ。
電気のない生活に慣れてしまうと、中澤は自分がそれほど電気を必要としていないことに気が付いた。とりあえず食事には困っていないし、とりたてて不便というようなことにも出くわしていない。暗いには暗いが、蝋燭の灯りというのも、じっと眺めているとどことなく温かみのあるもののように思えたものだった。炎はちょっとした空気の加減で容易く揺るぎ、照らしだせる領域はあまりに頼りなく、また女の子の声のように細く小さな存在だった。しかしその小さな灯りに照らし出された小さな世界の中に、中澤はこれまでに感じたことのない危うげな親密さを感じることができた。
「ときどきね」
と女の子は久しぶりに喋りだした。中澤はしばらくのあいだ、その言葉の続きを待った。そこには長い、長い沈黙が横たわっていた。掛け時計が時を数えるこつん、こつんという音が部屋の中を彷徨い、暗闇に飲まれて消えていった。一定の間隔で音は放たれ、彷徨い、行き先を求めて空しく消えた。
「急がなくていいよ。気が変わったんなら中断してもいい」
中澤はマッカランをひと口飲み、できるだけゆっくりとそう言った。女の子はしばらく目を瞑り、深呼吸をした。やがて自分のまぶたの裏に語りかけるかのように、静かに口を開いた。