〜 道徳・共生 〜-1
〜 29番の道徳 ・ 共生 〜
『人という字は、2本の棒が支え合っている。 だから、人間は支え合っていくものだ』
初めて耳にした時は、なるほどそうかと、ちょっぴりジーンとなった気がするけれど――今はすっかり真逆になっちゃった。 陳腐すぎて耳が腐る。 人? 人って何ですか? 私は違う。 人間でも人でもない。 如いていえば『ヒト』であって、もう少し言えば『ヒト科』の『メス』に該当する存在。 だから、支え合うなんて似合わない。 手を伸ばして股間を拡げる『ヒ』の字や、片脚を持ち上げてお股を晒す『ト』の字の姿勢こそ相応しいんです。
どうせ私なんて――そんな気持ちが根底にある。 だから、2号教官が『道徳』の教科書・2章で『ヒトと支え合って』といいう見出しを示したとき、素直に頷くことは出来なかった。
第2章の項目は以下の通りだ。
@礼儀の意義を理解し、礼儀にのっとった振舞をする。
A思い遣りの心を育む。
B励まし合い、高め合う知己をつくる。
C異性を理解し、尊重する。
D互いの個性を理解し、尊重する。
E他者の期待や支えに応える。
教官曰く、
『社会に受け入れられる素材になるためには、メス同士の交流、目上の指導者との交流を通じ、道徳的に牝性を磨くことだ。 交流の根底には、自分が支えてもらっている自覚と、それにふさわしい行動が必要になる。 自分を含む牝に認められている行為の種類を学びなさい』
とのこと。
内心どう思っていようと、教室では2号教官は絶対だ。 私を含む35名の生徒に出来ることといえば、教官が提示するカリキュラムを黙々とこなすだけだった。
……。
第1の項目。 礼儀の意義を理解し、礼儀にのっとった振舞をする。
礼儀は、相手を尊敬する気持ちを表現する手段だ。 私たちメスは品性が卑しく、淫らで変態な存在だからこそ、礼儀を疎かにしてはいけない。 かといって一昔前の礼儀をそのまま取り入れては、中身が伴わない『虚礼』になる。 私達に相応しい手段とは、つまり、私たちのありのままを表現した上で、相手に不快の念を抱かせない方法だ。 何しろメスの存在そのものが劣等なので、視界に入るだけでも不愉快にさせる恐れがある。 ゆえに所定の仕草、常識に則った対応に習熟することが意味をもつ。