フリージア-1
調理師になる為に、専門学校に通っていた十代の頃。
製菓のクラスには沢山の女の子がいたけれど、私の在席する総合調理のクラスには、まだまだ女の子は少なかった。
だからと言って、選り取りみどりのハーレムなんてそんな世界は夢物語で、恋愛に結びつく事柄なんて皆無の日々を過ごしてた。
数少ないクラスの女の子とそれなりに友達にはなれたけど、みんな恋に浮くより食い気に引力を感じる、所謂「花より団子派」で、いつも話す事は食べる事や調理に関しての話題ばかりだった。
そんな私も団子派で、アルバイトして僅に稼いだお金はみんなランチや食べ歩きに費やしてた。
初めて「Ciel blue」に足を踏み入れたのは、学校の職業研修で、十七になった冬の日だった。
それは初めて見た真剣なプロの世界。とても熱くて、とても眩い世界だった。
老舗の有名店。そこで働く人達。その圧倒されるばかりのプロの空気に萎縮して、初日から散々失敗を繰り返して、皿や鍋を洗う事さえもまともにできなかった。
そんな中だ。別の学校から研修に来ていた那由多に出会ったのは。
今思えばあの頃から那由多は、纏う空気が他の研修生とは違ってたなぁ…。
私と同い年。同じ学生なのに、那由多だけはプロの空気に負けず、研修の域を越してた。お客様に出す料理には手を出す事はできなかったけど、賄いを作らせて貰って、それを食べたオーナーから「学業を終えたら、絶対にウチに入りなさいよ」なんてお墨付きまで貰って。
…私の採用理由は「なんかアンタ面白そうよね」なんて言葉だったなぁ…。
「全く! お前は本当に後先考えずに! いい加減用心って言葉を覚えろよな! オーナーがスペアキー使って止めに入ってくれなきゃ取り返しがつかない事になってたんだぞ…って、聞いてんのかおいっ!!」
「いたっ!!」
運転席から伸びた手に軽く小突かれて、思い出から現実に引き戻されて、
「…ごめん」
那由多にお説教されながら思い出に飛んでた自分に苦笑いを浮かべてしまった。そんな私を見て、悲しんでるって勘違いしたのか、
「…いや、悪かった。オレのほうが言い過ぎた。キツい思いをしたのはお前なのにな」
不器用にも精一杯気遣ってくれる那由多を見て、
「大丈夫だよ。嫌な思いをした以上に、私の中にずっとあった大事な想いに気が付く事が出来たから」
「大事な想い?」
「うん…。ずっと蓋をして、見ないふりしてた想い…」
ひじ掛けに乗せられて持て余された那由多の左手にそっと触れたら、一瞬はっとした表情を浮かべた後に、小さな照れ笑いを浮かべて私の手を握り返してくれた。
「ずっと悔しかったんだよ。認めて欲しかったんだよ。料理長としての那由多にも、一人の男の人としての那由多にも…。だからずっと一生懸命頑張って来られたんだよ」
信号が赤に変わり、車が停まった。
同時に、那由多の顔がゆっくりと近付いて、唇に迫る温度を感じて目を閉じた。
重なりあう体温、熱を帯びる頬。甘く軋む胸の奥。互いのか細い息づかいを耳にして、譫言みたいに「好き」がこぼれた。
信号が変わる少し前に、唇が離れると、那由多は急にウインカーを出して、車を左折の体制に切り替えた。
「ちょっと…、そっちに曲がっちゃうと、私の家とは反対方向に――」
「お前ん家は遠いだろ。だからオレん家に行き先変更な」
「なっ! なんでそういう事になるのよっ!」
突発的な行動に慌てた私に、
「もうこれ以上我慢は無理だからな。オーナーにも、グダグタしてないでとっととケリつけてこいって背中殴られたし」
そう真顔で返され、握られた手に少し強い圧をかけられたら、顔が熱くなるばかりで何も言えなくなってしまった。
(オーナーのばかっ……)
先刻のオーナーの言葉を嫌でも思い出して、益々顔が熱くなるのが恥ずかしくて、窓の外に視線を向けて沈黙するしかできなかった。