〜 国語・古典 〜-2
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『春はあけぼの。ようよう白くなりゆく、山際少しあかりて、紫だちたる雲の細くなびきたる。夏は夜。月の頃は更なり。闇もなお、蛍の多く飛びちがいたる。また、ただ1つ2つなど、ほのかにうち光りてゆくもをかし。雨など降るもをかし。秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝床へゆくとて、3つ4つ、2つ3つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はたいうべきにあらず。冬はつとめて。雪のふりたるはいうべきにもあらず。霜のいとしろきも、また更でも、いと寒きに、火等急ぎ起こして、炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもてゆけば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし』
古典の随筆『枕草子』だ。 この第一段は、次のように『精読』する。
『お膣は開いて伸ばして原型の3〜4倍に広げても足りない。 どれだけ自分のお膣を通じて内臓をさらけだしてみても、卑しく悪臭漂う黴た膣を見て貰うことすらおこがましい。 だんだん淫らな汁がオリモノとバルトリン腺液で白くなってゆく様子など、腐卵臭と紅潮した膣壁との対比によって、見る者すべてが吐気を催す。口から嘔吐した食品、犬が排泄した大便、塩に融解した蛞蝓(なめくじ)にも増して、牝の膣が少しでも見えていると、どうしようもなく恥ずかしくなる――』
12号教官がアレンジした文章を下敷きに『解釈』したところで、『精読』のレベルには達しない。
この調子ですべての文章を『精読』し終えた時、精読文章は原文の20倍以上になっていることもザラにある。
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12号教官のアレンジの中で、印象に残っているのが『般若心経』だ。 天竺を旅した法師三蔵が訳したとされる、旧世紀の多神教・仏教の中の短い経典で『知恵とは物事に囚われない心であり、囚われないことが幸福に生きる術だ』と説いた。
『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空想 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中無色 無受想行識 無限耳鼻舌身意 無色声香味触法 無限界乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無知亦無得 以無所得故 菩提薩垂 依般若波羅蜜多 故心無圭礙 無圭礙故無有恐怖 遠離一切転倒夢想 究境涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯帝羯帝波羅羯帝 波羅僧羯帝 菩提 僧莎訶 般若心経』
12号教官が手を加えた文言は、前半が、
『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆膣 度一切膣穴 舎利子 色不異膣 空不異膣 色即是膣 空即是膣 受想膣孔 亦復如是 舎利膣 是諸法膣孔 不膣不孔 不尻不浄 不乳不減 是故空中無膣 無受想行識 無限膣乳孔栗意 無色膣乳孔栗法 無限界乃至無意識』
となり、『すべては膣と穴と乳なのだから、それ以外のことは考えるな』というわけだ。
後半は、
『無無膣 膣膣膣膣膣 乳乳乳乳乳 膣膣膣膣膣 膣膣膣膣膣 膣膣膣膣膣 膣膣膣膣膣 膣膣膣膣膣 膣膣膣膣膣 膣膣膣膣膣 膣膣膣膣穴膣膣 膣膣膣膣膣膣膣膣 膣膣膣膣膣 膣膣膣膣膣 乳乳乳乳 乳膣膣 膣膣膣乳 膣膣 膣膣膣 膣膣膣膣』
というわけで、もはや『解釈』する手がかりすら見いだせなかった。
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ごく稀に、精読を経ずに和訳する場合もある。 通読、解釈、精読というプロセスを経ずとも、古典が示す私達の卑しさが読み取れる作品であれば、単純な和訳で事足りる。 例えば白居易の『長恨歌』が挙げられよう。
『漢皇重色思傾國 御宇多年求不得 楊家有女初長成 養在深閨人未識 天生麗質難自棄 一朝選在君王側 (中略) 姉妹弟兄皆列土 可憐光彩生門戸 遂令天下父母心 不重生男重生女 (中略)在天願作比翼鳥 在地願爲連理枝 天長地久有時盡 此恨綿綿無絶期』
(玄宗は美しい女性が好きだ。 絶世の美女と出会いたいと願う。 楊家の娘が一人前になった。
世間には知られていなかった。 美しさは隠しようがなかった。 ある日玄宗のもとに差し出された。 (中略) 楊貴妃の親族は取り立てられた。 可愛い楊貴妃のおかげなことは明らかだ。 世界中の親は思った。 男を生むより美人を生んだ方が得だと。 (中略) 楊貴妃の霊が語った言葉は次の通りだ。 天空では伝説の比翼の鳥のようにありたい。 地上では別の根から一本の幹に合わさりたい、と。 世界には終わりがある。 玄宗と楊貴妃の哀しい物語は語り継がれる)
どんなに秀でた容貌であろうと、どれだけ深い愛情を持とうと、牝はあくまでも牝でしかない。 やれ悲恋だ純情だと上辺を飾ったところで、牝を尊重した時点で玄宗は過ちを犯している。 牝の人格を尊重すれば、世界の秩序が乱れ、牝自身を含むすべての存在が不幸になる……これが長恨歌を訳し終えた私達に去来した想いだ。
古典作品の質に合わせた読解によって、生きているだけで恥ずかしい牝の本性が、古代から連綿と続くことが証明できる。 現代の私たちだけが、存在そのものが淫らで恥なわけじゃない。 文字で遡る歴史すべてが、牝の卑しさをテーマにしている――そう思っていると、自分の存在を恥ずかしいと思いつつも、どこかでホッと安心できるのだった。