アールネの少年 4-3
人間態のときよりも視野が広がり、わずかな星明かりを集めてほとんど昼のように周囲を見ることができるようになる。
回廊の歩哨の目は城壁の外に向いており、王子の部屋の窓から飛び出した彼には気付きもしていなかった。よしんば気付いたとしても、一羽の黒い鳥だ。
視界の中心に、慌てて窓の外に身を乗り出すセリス王子とセギュンの姿がある。
二人まとめて外に引き摺りだそうと、彼は『力』の手を伸ばそうとした。
そのときだ。
バン、と何かを叩きつけるような音が耳を打った。
王子の部屋の扉を、何者かが外から乱暴に開いた音だった。同時に数名分のせわしい足音が続く。
『おい、何を騒いでいる!』
『よせ、飛び降りるつもりかっ?』
鳥態での聴覚もまた、人間態のときとは少し違う。
音自体はより細かく明瞭に聞こえるのだが、言語の処理手順が変化するためか、言葉を言葉としてとらえにくくなる。
人間のわめく声はとくに、他の自然音声よりもうるさく感じられた。がんがんと響く騒音が近付き、窓辺の二人を引き離そうとする兵士の姿が目に入る。
侍女が怯えた表情でこちらを見た。夜闇にまぎれた鳥態を見分けられたわけではないだろう。だが偶然にせよ、彼女の目はアハトのいる闇をとらえていた。
一応、静かにことを進めるつもりはあったのだが……派手にやれと言ったのは王子だ。
アハトは面倒な事態を王子のせいにすることにして、力を放った。
※※
それは楽しげな幼児の歓声が、新月の夜空に響いた。
「魔法使いっ、もっと高く! もっと高く飛んで!」
北ナブフル王城では、窓から転落した王子と侍女を探して大騒ぎになっていた。城の内外で次々と火が灯され、白い城壁が照らし出されていく。
それをはるか下方にみとめて、アハトは上昇を止めた。すぐそばには二人の人間が、『力』で空中に持ち上げられている。
二人の表情は対照的だった。子供の方は目を輝かせて満面の笑顔でいる。
実体のない空気の圧力でしかない『力』に包まれる感覚を全身で楽しんでいるようだ。
彼の侍女は主君のリクエストをやめさせたいと考えていたに違いない。だがそれを声に出す余裕もなく、ただじっと身を縮めていた。血の気の引いた顔でがたがたと震えながら、祈るように両の手指を組む。
高いところから跳躍し、頂点へ達して重力のゼロになった、あの瞬間の感覚だけがいつまでも持続するのだ。体は自由に動かせるが、伸ばした手足は何にも触れることはない。安定した地平は、はるか眼下に広がっている。
空中にあっては落下するより他にない定めの人間には、この感覚は恐ろしいものであるらしい。
アハトとしては、かなり気をつかってやっているつもりだった。
わざわざ空気を膜状に集めて気圧や外気温の変化から完全に遮断しているので、高速で移動しながら中の人間にはそよ風ほどの刺激もないはずだ。
もとよりがっちりと『力』でつかんでいて、どれだけ動こうが取りこぼすおそれはない。
彼らが思うよりずっと安定していて安全なのだ。怖がられるのは心外である。
以前シェシウグル王子を運んでやった際、怖がった彼に寒いだの息苦しいだのと散々文句を言われて不快な思いをしたのを思い出し、アハトは鳥態なりに顔をしかめた。
それまで人間を上空に持ち上げたことなどなかったので、彼は普通に、荷物を運ぶ際と同じように『力』でつかみ上げて、自分が飛ぶのと同じ速度で引っ張ったのだ。
まったく配慮しなかったわけでもなく、ちゃんと凍死や窒息の危険がない程度の低空低速飛行はしてやった。
そもそも、誰にも見つからずに王宮を抜け出すなどというくだらないことに力を貸してやったのだから、快適でなかったくらいで文句を言われる筋合いはない。
そこで、知ったことかと済ませてもよかったのだが、言われっぱなしは癪にさわるからという理由で改善をはかってしまうのがアハトの性格だった。
おかげで球状に包み込んで体温と呼吸を守ってやる運び方が身についたのだ。もっとも、当の王子を運ぶ機会がそれ以来一度もないわけだが。
「セギュン、みてみて! 船があんなに小さい!」
王都の港に停泊している、巨大な黒い船を指してセリス王子が興奮気味に叫んだ。
アールネの軍艦だ。まだ月も細い闇に沈む海面に、そこだけ煌々と明かりが灯され、ごてごてと武装された艦影がくっきりと浮かび上がっている。
このたびの侵略の、最初の攻撃は海からだったとアハトは聞いていた。
夜闇にまぎれて突如出現した艦隊は、王を失って混乱していた北ナブフル軍を蹴散らし、王城へと攻めのぼったのだ。その後は軍港を占拠し、沿海を巡航中だった北ナブフルの軍艦の帰還を阻んでいる。