アールネの少年 4-2
「あ、あのね」
視線をうつすと、セリス王子が先刻の歓喜とはうってかわった必死の表情で彼を見上げていた。
「セギュンもつれてっちゃ、ダメ?」
「セギュン?」
「セギュンはおれの侍女だよ」
じじょ、と発音しづらそうにセリス王子は言った。
「おれのこと、わるいやつから守ってくれたの」
「王子からは、あなた一人を連れ出せと言われている」
「セギュンがこないなら、おれ行かない」
強情な調子で彼は唇を噛んだ。
「セギュンは、おれのこと守ってくれたんだ」
セリスは先ほどと同じ台詞を繰り返した。
「……守って、いやなことされたんだ。泣いてたの、おれ見たんだ」
そう言って、彼はじわりとにじんだ涙を振り払うようにまばたきをした。
「おれがひとりで行ったら、おれを守らなくてよくなったら、セギュン、たぶん……たぶん、死んじゃう」
「……」
アハトは眉間にしわを寄せた。
抵抗する子供一人攫うくらいはわけもない。
だが、その後この子供の処遇をシェシウグル王子がどう考えているかは不明だった。アハトが世話を押し付けられる可能性は非常に高いが、侍女がついていればその心配もあるまい。
それに、れっきとした同盟国の王子に、ロンダ―ンに対して悪感情を抱かれるのもあまりよくない気がする。
まあいいか、とアハトは思った。どうせかかる手間は同じだ。
「いいだろう。セギュンとやらを呼ぶがいい」
「いいの?」
「ああ」
やった、とセリス王子は心底うれしそうに拳をつきあげた。
彼はとことこと扉に駆け寄ったと思うと、部屋の外に立つ歩哨の注意を引くべくどんどんと扉を蹴りつけ始めた。アールネ兵か北ナブフルの反乱軍か、いずれにせよ自分を閉じ込めている兵士に向かって、眠れないから侍女を呼べ、と大声でわめき散らす。
城中に響き渡るカン高い叫びを、さすがに無視しかねたのだろう。ほどなくして扉が開かれ、一人の女が室内に放り込まれた。
女は、化粧が落ちかけ髪もほつれ、慌てて服を着込んだような乱れた姿をしていた。
セリス王子の話ではまだ若い娘のはずだが、痩せて落ちくぼんだ眼窩にくまの浮いた、ひどくやつれた様子のためにずっと老けて見える。
「セリス様、お召しのセギュンでございます」
土気色に疲弊しきった顔色で、侍女セギュンは唇を笑みのかたちに吊り上げた。
幼い主君に憔悴を悟られまいと浮かべたのだろう無理な作り笑いは、かえって痛々しくもある。
「静かにおやすみにならなければいけませんわ。絵本を読んでさしあげましょうね……」
そう、装われた明るい声音で言いながら、彼女は室内へ歩を進めた。
扉が閉まったのを確認してから、セリス王子がアハトの手を引いて彼女の前に連れ出した。見知らぬ侵入者の姿に、彼女ははっと息をのんだ。
「な、何者っ……」
侍女は血相を変えてセリスに駆け寄った。幼い王子を彼の手から奪いとると、庇うように抱きしめ、アハトを睨みつける。
「どうやってここに侵入したのです!」
「あのね、セギュン。こいつ、カラスに化けてたんだよ。ね?」
「鴉……」
一族でも珍しい黒一色の羽根を持つアハトは、人の幼児相手に訂正するべきか少し迷った。
幼い頃からそう揶揄されるのは日常茶飯事だったが、だからといって良い気分のするものではないのだ。そもそもツミの一族は本能的に、悪食で獰猛な鴉という種に嫌悪を抱くのが常だった。彼らにとって、その名で形容することははっきりとした悪口である。
「鴉に化けて……? どういうことです」
セリス王子ののんびりした答えに困惑の表情を浮かべつつ、セギュンは引きつった声で質した。
「俺はロンダ―ンの王子に仕える魔法使いだ。セリス王子の脱出に助力するよう指示されている」
「魔法使い? まだ子供なのに……」
セギュンは眉をひそめた。
「ご所属を証明できますか」
なおも疑わしげな彼女に、アハトは素直に隠しからロンダ―ン軍の徽章を取り出してみせた。隠密の役割を持つ彼ら一族に独自の印はないが、身をやつす上で便宜上持たされているものだ。
両羽根を広げた猛禽をかたどった陸軍の紋に、シェシウグル王子の印である橘の枝実の意匠が加えられている。これは王子の側近であるという証だった。
「ミルハーレン王女のお印は柊、シェシウグル王子は橘……」
じっと徽章を見分しながら、セギュンはぶつぶつと呟いた。世継ぎの王子の侍女だけあって、盟主国の王家のことは頭に入っているようだ。
「……ロンダ―ン王家の方々は、不思議な力を持っていると聞きます。魔法使いが、その力の正体というわけですね」
納得したように、彼女はようやくほっと肩の力を抜いた。だが、いまだセリス王子を腕にかばったままだ。
「どうやってお落としするおつもりですか? アールネ兵と反乱軍で城はいっぱいです。幼いセリス様を連れては、とても……」
「派手にやれと言われている。多少不自然でもかまわんだろう」
「派手に?」
「窓辺に立て。王子を抱えて待っていろ。高度が上がるまで声を出すなよ」
「高度?」
注意事項だけ簡潔に伝えて、アハトは窓の縁に足をかけた。
「何をっ……?」
不親切な指示に、不安げに聞き返そうとしたセギュンが細い悲鳴を上げた。アハトが高い窓から身投げしたように見えたのだ。
外に出ると同時に変化したアハトは、バサバサと二度羽ばたいて気流に乗った。