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由香里も遠出をして疲れていたのだろう。ベッドに入るとすぐに寝息が聞こえてきた。彩希はソファに丸まっていたが、眠るどころか目は冴えていた。目を瞑ると康介のことを思い出してしまうから、由香里に知られないよう薄く瞼を開けていた。
やがて彩希は音を立てないように起き上がり、服を着替えると洗面所に行った。涙と腫れた瞼で酷い顔になっていたが、メイクを最大限繕って外へ出た。
電車はもう無い。幹線道路に出てタクシーを捕まえる。
「どちらへ?」
運転手に問われて、どうしよっかな、と一考してすぐに答えが出た。
「渋谷」
東京に来てから「大きな街」というと、日サロに通っている渋谷くらいしか思い浮かばなかった。ここからどれくらいかかるのか分らなかったから財布の中身が気になったが、まもなく「駅まで入ると混むんで、この辺りでいいですかね」と運転手に声をかけられるほど案外近かった。東京に住んで一ヶ月になるが、まだ位置関係が全然分かってないなと思いつつ街中に降り立つ。渋谷は渋谷らしいが、建物に囲まれているからどちらが駅かも分らなかった。
終電が無くなったのに人がたくさんいた。デニムのダメージショートパンツにタンクトップ、ドルマンスリーブのカットソー。安物だがアクセサリーもしこたまつけている。いつかデートするときに着てやろうと思っていた出で立ちだ。目的地はない。坂を上る気力は残っていなかったから下っていくことにした。歩き始めると早速周囲の視線を感じた。
「お姉さん、どこいくのー? いまから帰り?」
男が声をかけてきた。怪しさが滲み出ている。ナンパかなと思ったが、片耳にイヤホンが挿さっているところを見ると、どこに連絡を取っているのかは知らないが何らかの勤務中のようだ。
「別に……」
歩みを止めずに答えると、並行して歩きつつ、
「お姉さん、どこで働いてんの? いまいくら貰ってる?」
冷たい彩希にめげずに問うてきた。何に見えているのだろうか。何を訊かれているか分らなかったから黙っていると、「……ちょっとさー、ウチに体験入店してみない? お仕事絶対ラクチンだから。大手だよー、ウチ」
仕事は探しているが、今は探していない。特別用事があるわけではなかったが、うっとおしいなぁと思って男の方を見ずに歩いて行くと、坂を下り切ったところで駅が見えてきた。
「ちょっとぉ、お姉さん。無視しないで話聞こーよぉ」
「……うっざいなぁ、もぉ」
赤信号で立ち止まり、声をかけてくる男も含めて周囲を見てみた。この時間に何をしているのかわからない、自分と同じような若い女に声をかけているスーツ姿の男がたくさんいる。繁華街に来れば、ナンパ男が多くいると思っていたが、いるのは何らかのスカウトマンばかりだった。こんな時間に男一人で繰り出し、女一人をナンパしようとする奴はいない。どうやらそこは札幌と変わらないようだ。どこに行けば声をかけてもらえるのかなと考えている間もずっとスカウトが何やら話している。
「……ここにいたのか」
男の逆側から誰か近づいてきた。てっきり近くの別の誰かに言っているのだと思っていたら、肩を抱かれて引き寄せられた。えっ、と思って見上げると、
「あ……」
ニッコリとしたウインクを向けられる。
「あ? 何だてめぇ――」
スカウトが口調を変えて彩希の向こうに立った男を見たが、顔を見た瞬間勢いが削がれていく。
「……悪い。この子これから俺と一緒なんだ」
「……いや、そうなんすか。失礼しました……」
ヘコヘコして立ち去って行った。彩希はわけが分からずにずっと男を見上げていた。
「――ああいうヤツに取り合ってちゃダメだろ?」
「別に……、相手にしてない」
「一言も答えず小走りで振り切るんだ。普通に歩いてたらいつまでも追いてくる」
男は彩希の肩から手を離し、「……一ヶ月ぶりだね」
身装のよいスーツは以前とは雰囲気が違ったが、印象的な顔の傷痕は変わらなかった。スカウトはこれを見て、まともな筋の人間ではないと思って退散したのだろう。
しかしこちらは傷痕を目印にして憶えていたが、この男は渋谷に来れば何の特徴も無く紛れてしまう自分によく気づいたものだと感心した。
「……何で助けてくれたの?」
「俺が見かける度に君が困ってるからさ」
そう言って男は自分で笑った。男の周囲を見回したが今日は連れはいなかった。
「……今日はひとり? 愛人さんは?」
「ああ。仕事帰りなんでね」
愛人という言葉にも特に不愉快に思うことなく笑って答えたところを見ると、正真正銘の愛人なのかもしれない。