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真田拾誘翅(さなだじゅうゆうし)
【歴史物 官能小説】

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 大坂冬の陣、そして夏の陣。勝利を収めたのは徳川家康だが、その戦で名を上げたのは敗れた大阪方の将、真田幸村だった。家康の首に手が掛かる寸前まで追い込んだものの惜しくも捕り逃がし、善戦むなしく命果てたが、その刮目すべき戦働きで、幸村の名は日の本を駆け巡り、未来永劫語り継がれることとなった。
 幸村には勇猛な旗下が多くいたが、特にめざましい活躍をした男どもは真田十勇士と呼ばれ物語にもなった。が、幸村が起こした奇跡の陰には、別なる「じゅうゆうし」の存在もあったのである。それは、真田の傀儡女(くぐつめ)と言われる女人たちで、いわゆるくノ一として働いた彼女らを記した書物には「拾誘翅」という文字が使われていた。


 慶長五年九月十五日(西暦1600年10月21日)、関ヶ原の戦いが行われ、結果、東軍の勝利。一日にして天下の趨勢は徳川家に大きく傾いた。
 家康は勝ちを収めたものの、活躍したのは徳川勢ではなく、福島正則など豊臣秀吉恩顧の部隊であったため、戦後処理が家康の当初の思惑とは大きくずれた。石田方の西軍諸大名から没収した総石高は六百三十万石余にもなったが、そのうち実に八割、五百二十万石ほどを、秀吉恩顧の大名たちに加増としてあてがわざるを得なかったのである。
 本来であれば家康の息子・秀忠率いる三万八千の兵が戦いの主力となるはずだったが、その大部隊は真田昌幸・幸村父子の守る上田城攻めに手間取り、関ヶ原へは遅参。着いた頃には戦いは終わっていたというありさまだった。
 家康は秀忠を大いに叱責したが、足止めを喰らわせた昌幸・幸村へも怒りの矛先を向けた。「当然、死罪じゃ!」と腕を振り上げたものの、家臣からの意見もあり、結局、流刑にするということで、家康の憤る腕は渋々降ろされた。


 慶長六(1601)年。大坂より南へ直線距離で十一里(約43キロ)あまりの紀州は九度山。ここに真田昌幸・幸村父子が徳川家康によって配流されてから一年が過ぎようとしていた。
 流人の身といえども、昌幸、幸村それぞれに屋敷を持ち、九度山から遠く足を伸ばさない限りは、森や河原を散策することは黙認されていた。

 昌幸は冬枯れの丘を歩いていたが、五十も半ばに差し掛かろうというのに足取りは確かだった。小春日和ということもあり足の運びは軽やかだった。その後を、十の小さい人影が付き従っていた。皆、五、六歳くらいの女童(おんなわらべ)である。その先頭の子が黄色い声を上げた。

「大殿様。しばし休みとうござりまする」

「ん? なんじゃ、早喜(さき)。はやも、へたばったか」

昌幸が笑顔で振り返ると、早喜はそれに倍する笑みを返しながら素直に「はいっ」と快活に答えた。

「さようであれば、歩みの鍛錬をしばし休み、あの芒の群れが途切れたるところで、ねまる(座る)としようかの」

昌幸の言葉に女童たちは喜びの声を上げた。

 枯れ始めた草の上に昌幸が腰を降ろすと、早喜をはじめ皆がコロリと寝転がった。が、一人、童にしては落ち着きのある娘が端然と座したまま昌幸をじっと見つめていた。

「ん? なんじゃ、久乃(ひさの)」

「大殿様。古い上田合戦のことを、また、お聞かせくださりませ」

やや下ぶくれの面(おもて)を丁寧に下げる。

「またかえ? 過日、語って聞かせたではないか」

「また、聞きとうございます。あのように面白き話はありませぬ。ぜひに……」

久乃が願い出ると、寝転んでいた九人の女童たちの口からも「聞きとうございますー」と甲高い声が上がった。
 昌幸はしかたがないという顔で苦笑いをし、座り直して背筋を伸ばすと、おもむろに語り始めた。

「あれは、今を去ること十六年前。天正十三年の夏じゃった。この九度山から東へ徒(かち)でおよそ十五日はかかる遠国、信濃。そこにわしの居城だった上田城がある。その山城に徳川家康の手勢七千が攻め寄せてまいった。守るこちらは千と五百。数の上では、はなはだ旗色が悪い。それでもわしらは逃げずに敵を待ち受けた」

「なにゆえ攻められし?」

早喜がつぶらな瞳をさらに丸くして問うと、隣に寝そべっていた沙笑(さえ)が、童のくせに白面怜悧な顔を少しゆがめながら言った。

「それはこの前聞いたであろうに。その頃、真田家は徳川の傘下であったが、家康は北条氏と敵対しており、和議を結ぶ必要が生じ、勝手に大殿様の所領と北条の領地とを交換しようとしたのだ」

「大殿様の土地なのに、大殿様に黙って?」

「そうじゃ。そこで怒った大殿様が気色ばみ『わしの所領は渡さぬ!』と拒みしゆえ、徳川が『命に服せぬとは不届き千万』と攻めてきたのだ。さようなことでございましたよね、大殿様」

「さようさよう」昌幸は沙笑にうなずいた。「詳しく言えば、わしの所領、沼田は徳川より賜ったのではなく、わし自身の力で勝ち取っていたもの。それを徳川・北条、和睦のあかしとして北条氏直に割譲するという話が持ち上がったので、わしは頭にきて徳川を見限り、上杉景勝と手を結んだ。そこで家康が『おのれ造反者め!』と真田討伐の軍を差し向けたというわけじゃ」


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