Scene 1-1
「今日部長の所に報告に行ったらさ、お祝いにってワインもらっちゃったよ。」
キッチンで夕食の準備をしていた香織の後ろから康介が弾んだ声をかけた。
「え。そーなんだ、じゃ、今度お礼言わないと。」
「今度よかったら3人で食事でもって、誘ってくれた。」
「食事…。」
香織は料理の手を動かしながら辰巳の顔を思い浮かべた。
切れ者でやり手という評判どおり、いくつもの重要案件をまとめ同期では出世頭らしい。
康介も入社当時から部長には可愛がってもらっており、上司として心から尊敬しているらしいことが、言葉の端々からうかがえた。
ただ、香織の印象は康介とは少し違っていた。
仕事は出来るかも知れないが、どこか冷たい感じのする人。
どことなく、陰湿な感じがして生理的に受け付けないタイプの男性。
特に何かがあった、というわけではないが、ふとした弾みにねっとりと絡みつくような部長の視線を感じたことが1度ならずあった。
もちろん、康介にも他の同僚にもそんな話をしたことはない。
単なる思い込み、勘違いなのかも知れないし。
「せっかくだから、今日飲もうか。」
「そうだね。ちゃんと頂いてから、お礼言わないとね。じゃ、栓抜いてくれる?」
香織は棚からワイングラスを取り出し、食卓の上に並べた。
今の会社に入って2年目の秋、3つ上の先輩だった柳本康介に交際を申し込まれ、それからさらに3年目のこの秋に、結婚を申し込まれた。
27歳という年齢を考えれば、丁度いい潮時という気もするし、もっと仕事を続けたいという未練も、ないと言えば嘘になる。
悩んだ末に、香織は求婚を受け、会社は3月いっぱいで退社することを決めた。
来年の6月に予定している式まではまだ8ヶ月余りあるが、正式に婚約したことを上司にも報告しておいたほうがいいと二人で話し合い、先週結納を終えたばかりだった。
結納の席で互いの両親の喜ぶ顔を見たら、結婚を決めてよかったと素直に感じたし、二人で新たな家庭を作ることにも小さな自信が芽生えてきた。
「今からいろいろ大変だよね。」
「うん、そうだね。そうだけど、でも康介はちゃんと仕事頑張ってね。プライベートの事は出来るだけ私頑張るから。」
「分かった、ありがとう。どんなに忙しくても、ちゃんと相談には乗るから。」
私の作ったご飯をおいしそうに残らず食べてくれること、私の話にいつも真剣に耳を傾けてくれること、結婚しても、きっと康介はいつまでも変わらないままでいてくれると思う。
「おいしいね、この肉じゃがとワイン。結構合うね。」
「ほんとに?」
年上なのにどこか無邪気な所のある康介の顔を見つめながらグラスを手に取り、深紅のワインに口をつける。