志津絵-23
その言葉にすら丈太郎は嫉妬していた。
この人はそれほどまでにあの老人を愛しているのか。自分と同じように、彼女の欲求を何一つ満たせないと言うのに。
「先生は、私が他の男としている時の声で妄想を掻き立て、何とか新作のきっかけを作ろうとしていました。
もう少しなのだそうです。あと少しで納得の行く出来になると」
そこで志津絵は再び頭を下げた。
「この期に及んで厚かましいお願いですが。もう少しお力を貸していただけませんか」
「だって、今さら僕に何が……」
志津絵は顔を上げて言った。
「先生の前で、私を抱いてください」
「ば、ばかな。そんなことできるわけないじゃありませんか」
「わかっています。愚かで破廉恥なお願いです。でも、私を好きだと言ってくださるあなたにしかお願いできないのです」
お願いします!お願いします!
志津絵は頭を下げた。
「先生のためではなく、私のために……!」
「う……」
丈太郎は取りあえず梅林家を出て、新聞屋の2階に移り住んだ。移ったと言っても同じ町内で、目と鼻の先である。
志津絵のことは忘れようと、新聞配達と学業に専念した。引っ越したことを手紙で実家に知らせていたためか、冨美子から手紙が届いた。
夏には帰って来て欲しい、と言う内容だった。
「椙田君。梅林先生のとこの奥さんが昼間来てさ。今度の金曜に来て欲しいそうだよ」
「え?」
大学から戻った丈太郎に、店主はそう言った。
「しかし、あの奥さんはいい女だねぇ。何が良くてあんな爺さんと一緒になったのか。やっぱり金かねぇ」
「さぁ……」
「おまえさん、少しあそこに住んでたんだろう?あんないい女と一つ屋根の下じゃ、良からぬことを考えたんじゃないか?」
考えたどころじゃない、あの人と寝ましたよ。そう言ったら店主はどんな顔をするだろうか?
志津絵が呼んでいると言うことは、あの話を実行する気なのだろうか。行かない、と言う選択肢もある。
どんな事情があろうと、夫の目の前で志津絵を……。
朝から雨が降っていた。
電車の中は蒸し暑く、不快だった。丈太郎はギリギリまで悩んでいた。地元の駅で降り、このまま下宿に帰ればいいことだった。
しかし、丈太郎の足は結局梅林家に向かっていた。
断ればいいんだ。そしてきっぱり縁を切ればいい。黒い傘をさして
梅林の家の門を開いた。
たった3ヶ月前、初めてこの門を開いたことを思い出した。ずいぶん昔のような錯覚を覚えた。
「来てくれたか」
梅林はそう言うと、入るように促した。
居間の奥の、仕事部屋であった。
「準備は出来ている」
「準備?」
「私は描く。ひたすら描いてみる。難しいと思うが、この戸の向こうの世界を現実として見つめてくれ」
「い、いえ、先生。僕は……」
「志津絵を、救ってくれ」
梅林はそう言うと、重い音を立てて戸を開いた。
部屋の中の光景に、丈太郎は目を見開いた。