J-5
雛子逹が、楽しい水練の授業に興じている同時刻。水練場からニ町歩ほど遡った川縁に、水質調査に勤しむ吉岡の姿があった。
「此処なら、浅瀬だから少し手を加えるだけで、簡単に作れるな」
吉岡は川縁の先、幅、五間程の川へと下りて行き、真ん中辺り迄割って入った。
深さは、足首の辺り迄しかない。吉岡は、首に巻いた手拭いを川に浸ける。
「はあ、いい気持ちだ!」
適度に冷えているのは、湧水が混ざっている証拠である。濡らした手拭いを固く絞り、顔から首筋に掛けての汗を拭った。
冷たさが心地良い。吉岡の顔も自然と緩む。
手拭いを首に掛け直し、腰を屈めて両手で川の水を掬い取ると、口許に運んで一口啜った。
吉岡は口の中に、微かな甘味が広がるのを感じた。
「うん!軟水だし、とても良い味だ。此処なら多分、大丈夫だろう」
様々な機器を駆使し、水に含まれる電解質分を数値化する調査も大切だが、最も簡素で且つ信頼度が高い方法は、五感による調査である。
特に、今回の様な“清浄で滋養溢れる水”が最適な場合、機器による分析値は、場所を決定する為の補足として用いる程度で、やはり、舌による鑑定が一番信用出来る。
「それでは!」
吉岡は、リュックの中から何やら取り出した。
見た目は、掌に隠れる程の小さな薬瓶に似ており、中身は空で、表に白いラベルが貼ってある。
「これは……三番と」
鉛筆で、瓶の紙と村を表した略図の現在地に、“三”と書き記した。
そうして、瓶の中を川の水で満たすと固く蓋を閉め、新聞紙で大事そうに包み込んで、リュックに仕舞った。
「後は……二ヶ所か」
一区切り付いた所なのか、吉岡は川から這い上がり、川縁に座り込んで足を投げ出した。
「ふう、ちょっと休憩だ」
ちょうど腹も減った──。ある意味、吉岡は、“この時間”が来るのを、今か々と待ち焦がれていた。
空に目を移せば、強い日射しの先で黒雲が、もこもこと重なり合い、此方に勢力を伸ばそうとしている。どうやら、ひと雨来そうな予感だ。
「此処での作業も、略(ほぼ)、“目処”が立ったな。雛子さんには悪いが、この先は……」
緩んでいた吉岡の目が、真剣味を帯びて行く。何か、強い思いを内に秘めているかの様に。
その時だ!──。吉岡の頭の後ろ、鬱蒼と茂る雑木林の奥から、何かが近付く様な音が聞こえた。
「な、何だ!?」
驚いた吉岡は、跳ねる様に飛び起きた。
山へと続く雑木林の中、猪や熊、はたまた狼か。頭の中で警戒音が、けたたましく鳴り響き“逃げろ!”と叫んでいるのに、身体は根が生えた様に動こうとしない。
「あ……ああ」
段々、音が近付いて来る。直ぐ先の密集して生える下草が、大きく揺れた。
吉岡は、恐怖に凍り付きそうになりながらも必死に勇気を奮い立たせ、リュックを抱えて身構えた。