I CALL YOUR NAME-3
「もう、いい」
俺は彼女の口を押さえた。
「……そんな話もあると言うことよ」
「逃げろ。東京なんかでぐずぐずしていないで、どこかへ」
「どこかって、どこ?逃げたって同じこと。その子は、もうそれ以下になれないほど堕ちてしまっているのよ。そんな子がどこでどうやって暮らしていくの?中学の同級生みたいに、最後は見捨てられちゃうのよ。その子は、もうそんな思いはしたくないはずよ」
「俺が……」
「その子はそんな期待はしていないのよ、きっと。誰も自分の代わりになれないことを知ってるから」
眠くなったわね。
そう言うとベッドサイドの灯りを落として目を閉じた。
俺は彼女の眠ったふりをずっと横で見ていた。それしか、できなかった。
いつものように、ドアを閉じると彼女は俺に一瞥もくれずロビーへ降り、足早に去って行った。俺も着替えて式場に行かなくては。
だが、足は彼女の後姿を追っていた。
どこへ帰るのか。それともその情夫の病院へ行くのか。
彼女はタクシーを拾い、乗り込んだ。
俺も慌ててタクシーを捕まえ、彼女のタクシーと同じ道を行くように指示した。
白金でタクシーを降りた彼女は、きれいな後姿を見せ一軒のカフェに入って行った。店の外から様子を見ていると、彼女は軽く手を上げ男の座るテーブルに向かった。
よく見えない。男であることだけはわかるが、奥まった席だった。
俺は思い切って店に入り、コーヒーを注文してカウンターに座った。
相手の男は年配で、どこかの会社の重役みたいな雰囲気だ。
やけに品のいいおやじだった。
何か話をした後、二人は席を立ち店を出る素振りを見せた。
俺も立ち上がる。
俺の目の前を、二人は通り過ぎて言った。俺など見えないように、彼女はおやじの肩に頭を寄せ、おやじは彼女の腰を抱いている。
俺と歩くよりもずっと似合っていた。
バカみたいに立ったまま、店の外の二人をみていた。歩道で立ち止まった二人は、憚ることなくキスを交わしタクシーを停めると乗り込んで行った。
そうか。そうだよな。
彼女が限られた時間で自由な恋を楽しむ相手が、なぜ俺一人だと思い込んでいたのだろう。
名前も知らない彼女が、ホテルから出たら誰とどこで何をしようと俺に何も言う権利はない。
彼女は、自由なんだ。今、この瞬間だけだけれど。
俺はさんざん約束をすっぽかしたことを彼女に責められ、お詫びとして次の休日は1日彼女に付き合う約束をさせられた。
気を揉んでいた受付も、ばたばたしているうちに終わった。
ジューンブライドなんてバカげたことだ。日本は梅雨の真っ只中じゃないか。
その式も、雨だった。
俺が初めて彼女に会ったのも雨の夜だった。
あれから何度も考えた。あの店に行ってみようか、ホテルを訪ねようか。
会いに行かないことで、彼女はまた見捨てられたと思っただろうか。
そうだ。
俺は恐かった。入院している相手の男は、どう考えてもまっとうな世界の人間じゃない。そんな男の彼女と寝たなんてわかったら、俺の指は1本欠損することになるだろう。いや、彼女への執着を考えれば東京湾withコンクリートかも知れない。
だからこそ、彼女は俺と自分がつながった痕跡を残さなかったのか。
でも、会いたい。
ジェーン・ドゥでも構わない。目の前にいる彼女は確かに温かい人間なのだから。
今週末会いに行こう。
もしかしたら、すでに情夫が退院していてホテルにもバーにもいないかも知れないが、行くだけ行ってみよう。
君を抱きに来たと、そう言おう。
『今日未明、港区芝にある○○総合病院に入院している男性患者が、血を流して死んでいると通報がありました。駆けつけた警察によると被害者は指定暴力団○○会系の幹部と見られ、何者かに刺されたものと思われます。なお、病院の防犯カメラにはこの幹部の病室を訪ねる女が映っておりなんらかの事情を知っているものと見て行方を追っています』
『本日午後22時ごろ首都高で自動車が側壁に激突する事故があり、運転していた女性一人が死亡しました。警察によると現場は見通しがよく平日と言うことで道は空いていたと言うことです。ブレーキ痕がないことから、女性の運転の誤りか居眠りと見て詳しく調べています。またアルコールは検出されていないということです。なおこの女性は持っていた免許証から、本日未明に起きた病院内での殺人事件に関与しているとして、警察が行方を追っていた人物と思われます』
俺はTVを消した。TVなんかつけるんじゃなかった。すぐ寝てしまえばよかった。
そのうち、彼女の名前は全国に知れ渡るだろう。
俺があんなに知りたかった名前だ。しかし、こんな形で知ろうとは思わない。俺は、彼女の口から聞きたかっただけだ。
よかったな、ジェーン・ドゥ。
これから君は永遠に自由だよ。
名もない君を、愛していたよ。
終わり