クロッカス-1
騒動を起こした中畑さんが店を去ってから、三日が過ぎた頃。
「昴、明日から俺と一緒に市場について来い」
「えっ…?」
早朝の仕込み時間に那由多からの突然の言葉に、私はただただ驚き、包丁を持つ手を止めて茫然気味に聞き返すと、
「なんだよ、嫌なのか? 嫌なら他に――」
「いやいやいやいや! 嫌だなんて思ってないっ! ほ、本当にっ!? 本当に私なんかが一緒に市場に行っていいの!?」
こんなチャンスが来るなんて全然思ってもみなかったんだもん。凄く驚いたけど絶対逃してたまるかっ!
私は、那由多の元へ小走りに向かった。
「私なんかじゃねーよ。お前が良質な食材を見抜く力が人より長けてる事は、俺だけじゃなくここの皆が認めてる事だといい加減気づけよな」
「だ、だって…、私はいつもドジでキッチンにいても足手まといで…」
「この店の誰がお前を足手纏いだと言った? 確かにお前はドジだし危なっかしいけど、不要な人材だと思った事は一度もないからな!」
那由多の言葉は嬉しかった。だけど、だけどっ!
「でもっ! でもっ! 私は七年もここで頑張ってるのに! まだ雑用の黄色いスカーフだし!」
「はあ? お前…ふざけんなよ? いつまでもそのスカーフを勝手に雑用の色とか決めてんじゃねーよ! そんな身勝手な階級付けたあのジジイはとうの昔に店から追い出されて、オーナーが階級は廃止にしただろ!」
「へ??」
那由多の言葉に、私の頭の中にははてなマークが無数に浮かんで一杯になった。
「…お…前、もしかして…、ずっと知らなかったのか?」
那由多の涼やかな切れ長の瞳が、驚愕したと言わんばかりに大きく見開かれて、私に向けられたけど、
「そ、そんな話、私聞いてな…いよ?」
「聞いてないわけないだろ! ジジイが辞めた翌朝、オーナーがミーティングで……あっ…」
「あ…れ…? そういえばあの時って私…」
前の料理長が辞めた時を思い出して、小さく震えて那由多を見上げて、
「インフルエンザで数日仕事休んでたし!! そんな連絡して貰えなかったし〜〜っ!!!」
「あちゃー…、オレ、てっきりオーナーが伝えたと…」
半ば涙目の私を見て、那由多は盛大に苦笑いをして、
「ごめんな…、だからお前、ずっと自己否定ばっかしてたんだな…」
「だって! だって!! 私は七年経ってもずっとずっと仕込みみたいな雑用ばっかり――」
「仕込みの仕事をバカにすんじゃねーよ!」
「――っ!!!」
「料理の魅力を最大限に引き出すに大事なのは、食材の良し悪しを見極めて、丁寧な下拵えが出来る仕込みの力だ。一見だれにでも出来るように見える仕事ほど、中々誰しもが出来る事じゃないんだぞ。料理の出来不出来を左右する繊細で難しい仕事を、俺はその大事なポジションをお前に任せてるんだぞ!」
那由多の真っ直ぐで強い瞳で、真っ直ぐで強い言葉で心を射抜かれた感覚に陥って、私は那由多を見上げたまま動けなくなってしまった。
「それを踏まえて認めたうえで俺はお前に、仕入れについて来いと言ってるんだ」
自信満々の強気な口調だ。だけど、その言葉の中には私のしなだれた心を引き上げるに充分過ぎる優しさを感じて…。
「…キッチン内では泣くなって約束だろ」
那由多は穏やかな口調で私の頭を撫でるようにひとつ叩いて、
「…そのスカーフの色な、俺はお前に似合う色だと思って結構気に入ってる。ほら、お前の名前って星に因んだ名前だし、星って黄色ってイメージだしな」
「…私の色…。そんな事思ってみた事もなかった」
嫌いだった雑用の色。でもそんなふうに言われたら、なんだかこの馴染みの黄色いスカーフがちょっと好きになれそうな気がした。