笛の音 3.-1
3.
鍵が差し込まれた音がしたからドアへ顔を向けた。直樹の住まうワンルームは入ってすぐの廊下沿いにキッチンが備わっており、コンロの前に立っていた有紗とすぐに出遇わすことになる。
「おかえり」
有紗は菜箸で鍋の具合を伺いつつ、口元に穏やかな微笑を湛えて直樹を迎えた。
「……ただいま」
「あとちょっとでゴハンできるよ」
もう少し煮込めば終わりだ。先に作った酢の物は冷蔵庫に冷やしてある。一口しか無いコンロだから、煮物をよそってから味噌汁を温め直さねばならない。そして白ゴハン――、何だか「お母さんぽい」献立になったな、と鍋に目を落として苦笑していると視線を感じた。ワンショルダーリュックを外し、スニーカーを脱いで廊下に上がった直樹だったが、入ってすぐの所で立ったまま有紗をずっと見ていた。
「なに? ……もうすぐだから、あっちで待ってて」
「うん」
返事をした直樹はなおも有紗を見続けていた。
「……何なの、もぉっ。ボーッとして。……見とれてんの?」
冗談でからかったつもりだったが、
「うん」
と言われて途端に胸をじんわりと潤った。本気の「うん」なのは彼の目を見れば分かる。そうだろうな、と思っていた。
「……そりゃ、家に帰ってきたら? こーんなキレイなオネーサンが料理作ってるんだもん、見とれちゃうよねー?」
「うん……、そうだね」
直樹が近づいてくるのを内心は期待に胸を甘く溶かしていたが、平静を装って鍋の方を向き直した。しかし伝わってくるのは、斜め後ろに立ったのに何もせず見つめるだけの気配だった。
「……そうやって側にいられると、ジャマなんですけど」
有紗は睫毛を少し伏せて意気地のない直樹を横目で睨み、コンロの火を落とす。「はい、できました」
そう言って体ごと直樹の方を向き直った。振り返ってみたら案外近くにいた直樹を、ここまで来てたくせに、と可愛らしく思って、首に絡まると背伸びをして顔を寄せてやった。やっとのことで直樹が腰に手を回してきてくれる。
「……いいねー、直樹ってば。ゴハンまで作って待ってくれてるセフレがいて」
有紗は褒美に顎のラインに軽く唇を沿わせる。
「うん……、……」
「……ゼイタクだ。ちょっと、カッコいいからって」
直樹に面と向かって、カッコいい、と賞賛してやるのは恥ずかしいし癪だったからそう言った。見上げると直樹が何か言いたげだったので唇を塞ぐ。少し乾いていた彼の唇を舌で潤わせてやり、有紗の麗しい感触に上気してきた直樹が唇を緩めたところへ濃密に舌を差し入れてやる。一層抱きしめる力が強まってきて、長い脚で膝丈のAラインスカートが割られ、お互い下肢を密着させると、身体に直樹の硬い感触があった。キスをする身悶えに紛れさせ、体を艶めかしく磨り付けると顔にかかる鼻息が荒くなる。
「……ね、ゴハン食べないの?」
「だって……」
扇情しておいて唇をはみ続け囁くと、直樹の声が熱っぽく震えた。
「ダメだよ。せっかく作ったんだもん」
有紗は唇の間に光る糸を引いて背伸びをやめた。直樹の股間の硬さを感じながらキスを交わしているだけで清楚なフローラル柄のスカートの中では溢れた蜜がショーツに染みていた。淫りがわしいという恥じらいよりも幸福感のほうが上回っていたし、離れる時の直樹が名残惜しく一瞬唇を追おうとした仕草が可愛らしかったから、奇妙な余裕が生まれて、有紗から身を引くことができた。
直樹と夕食を食べる。今日、会社が終わるとすぐに直樹の家に向かった。
帰宅が遅くなったら信也に疑ぐられ、彼の存在を感づかれようものならただでは済まない。せっかく手に入れた直樹を絶対失いたくはない。だから有紗は「彼氏に気づかれたくはない」という理由で、二人で会うときはそんなに遅くまで居れないと言い置いていた。それを伝えると直樹は頗る辛そうな顔をした。
この逢瀬の行く末を考えると、このままではどう考えたって良い結末は待っていないことが明白だ。しかし「この先も一緒に居たいならそうして」と有紗が念を押すと、直樹は恋しさに耐えながら渋々と了承した。遠い不幸な結末を深く考えず、短絡に目の前の有紗へ流されてくれたのだ。それでよかった。
大洗から直樹の家に直行した日の別れ際にもらった合鍵を使って部屋に入り、冷蔵庫の中を確認すると近所のスーパーに行って食材を買い込んだ。夕食の支度をしながら、バイトから戻ってくる直樹を一人で待っている時から鼻歌が漏れる。享楽的でも――それが幸せなんだと努めて考えた。
「美味しかった。……料理、すごく上手いんだね」
食べ終わると率直に直樹が褒めてくれた。有紗は胸の内の乙女はひた隠して、自慢気な笑みを浮かべると、
「とーぜんだよ。茨城では家のこと、ほとんど私がしてたんだもん」
と自慢してみせる。当時は父親も何とか母の役割を果たそうとしていたが、仕事がある以上限界があった。少し離れたところに住んでいた祖母が姉妹の世話をするとともに、家事もしにきてくれていた。だが小学生の時に亡くなってしまうと、有紗が家事の諸々を進んでやるようになったから、これしきの料理は何でもない。東京に来てからは専業主婦の洋子がいるから殆どやることはなくなったが、どうやら腕は鈍っていなかった。献立がお母さん臭くなるのはそのせいだからね、と直樹に言ってから、
「料理が上手いセフレでよかったでしょ? ……はい、ごちそうさまでしたー」
と、素っ気なくテーブルに並んでいた皿を片付けようとした。