私と俺の被加虐的スイッチ-3
結局、終わったのは九時を過ぎた辺りだった。急いでマンションに帰る。電車で５駅、徒歩２０分。秋になると銀杏並木がきれいに彩る、マンションだ。
三階の一番右端。オートロックを外し、エレベーターに乗り込む。昨夜から降り続く雨。梅雨独特の蒸し暑さとカビ臭さがエレベーターに充満している。
逃げる様に飛び出し、玄関のドアに鍵を差し込む。右に回し、いつもの手順でドアを開ける。
……正直、期待して無いと言えば嘘になる……。誰かが待っているなんて、何年ぶりだろう……
「…ただいま」
乾いた声が響く。いつもと同じ。静まり返った真っ暗な部屋。
…やっぱり…
んなぁーぉ、にゃーぉ
奥から昨夜の猫が駆け寄って来た。ふわふわの三毛猫模様。
「…お前はいたのか。…ただいま」
ちょっと、じーんとしてしまう。空腹も忘れ、子猫を胸に抱く。久しぶりの自分以外の体温が妙に懐かしい。
パチ…
不意に目の前が明るくなった。…電気？…と言う事は……気付くまで２秒ほどかかる。奥から現れたシルエットでやっと理解する。
「……おかえり」
ぼそっと眠たげな目を擦りながら少年が言う。昨夜、濡れた服の代わりに着せた、ピンク色のパジャマ姿のままだ。寝癖でグシャグシャの頭はプリン色。
口元に久方振りの笑みが戻る。
「…ただいま」
雪下 由依子、もうすぐ30歳。座右の銘は「衝突より割り切って生きる」。そんな私に久しぶりの笑顔が戻った瞬間だった。
………………
この女は何も聞かない。
あのまま、うたた寝をしてしまった俺は、玄関の鍵が開く音で目が覚めた。傍らで寝ていた猫もいない。外は、しとしとと雨が降り続いたままだ。
…帰って来たのか…
ぼやけた頭で理解する。どこか懐かしい。誰かが帰って来るなんて久し振りだ。
壁に埋め込まれている電気のスイッチを右に倒す。程無くして眩しいくらいの明かりが灯る。玄関に足を運ぶと、驚いた様な表情の女がいた。
ダークブラウンの髪色。肩まである波打つ巻き髪。グレーのスーツ。いかにもＯＬ。
「……おかえり」
思わず口から滑り出した言葉。何年ぶりか解らない、そんな言葉。
…きっとおにぎりが美味しかったから…そうだ。そうに違いない……
「…ただいま」
……ちょっと嬉しい、なんて思う。…違う、俺は孤独で…嬉しくなんて無い、うん…そうだよな……
「ご飯、食べよ」
廊下で突っ立っていた俺は、ハッとして声の方向を向いた。すでに女は玄関からキッチンに移動していて、鍋を温めていた。
「昨日作ったシチューだけど。…座って。今よそるから」
白い湯気が立ち上がり、シチューの優しい匂いが広まる。食欲をそそる匂いに唾液が分泌される。