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忘れ得ぬ夢〜浅葱色の恋物語〜
【女性向け 官能小説】

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老夫婦-2

 すずかけ町三丁目の名スイーツ店『Simpson's Chocolate House』。

 店の奥のダイニングで遅めの朝食を取り終えたシヅ子(70)は、テーブルの向かいに座って新聞を広げていた夫アルバート(73)に声を掛けた。
「アル、今日はこれから?」
 そのブロンドの髪のすらりとした老人は老眼鏡を外し、よいしょ、と立ち上がった妻を見上げた。「今日は気分がトテモいいので、たまにはアトリエに入って、ケネスの手伝いでもシマスか」
「へえ、珍しいこっちゃな」

 シヅ子は笑いながら自分の食器をキッチンのシンクに運んだ後、すでに店に出ている息子夫婦や孫夫婦の分といっしょに洗い始めた。

 『Simpson's Chocolate House』は今から約30年前、アルバートとシヅ子がこの街に来て開いたスイーツ店。当時の日本ではまだ珍しいチョコレート専門店ということもあり、開店当時から特に若い女性やカップルに絶大な人気を得ていた。その後何度か改築、増築を繰り返したそのカントリー風の大きな店舗は、街のランドマークであるばかりでなく、今ではこの界隈に限らず、近隣の町でも評判の押しも押されもせぬ名スイーツ店になっていたのだった。
 夫婦の息子ケネス(46)もショコラティエ。彼は19の時に親友ケンジの妹マユミと結婚。今はこの店のメインシェフとして立派に父の後を継いでいる。そしてその息子――アルバートたちにとっては孫にあたる――健太郎(27)も妻の春菜と共に店のスタッフとして働いている。

「もうすぐクリスマスで賑やかなええ季節やしな。何か作るんか?」
「久しぶりに」手に持った老眼鏡を掛け直し、新聞に目を向けたアルバートはそのまま答えた。「ガトーショコラでも食べマスか? ハニー」
「いや嬉しい。ほんま久しぶりやな。思い出のお菓子やんか。どないしたん? わたしに何か機嫌とらなあかんことでもあんのんか?」
「ただの気まぐれデース」
 アルバートはおどけて言って笑った。
「アルんとこの店でわたしが初めて買うたお菓子やったな。覚えててくれてんの?」
「忘れるワケ、ありまセーン」
 アルバートは両手を広げて当然だ、というジェスチャーをすると、テーブルにあったポットから手元の急須に湯を注ぎ、その爽やかに香り立つ緑茶を二つの湯飲みに注ぎ入れた。
 食洗機のスイッチを入れ、タオルで手を拭きながらシヅ子はしみじみと言った。「あれからもう50年になるんやなあ……」


 カナダ生まれのアルバート・シンプソンは、15歳の時に来日し、大阪の菓子店で働いていた。2年後チョコレート菓子の著名な職人の店に移り、不自由な日本語のハンデに苦しみながらも厳しい修行に耐えた。しかし、持ち前の粘り強さと手先の器用さ、そして何よりその天真爛漫な明るさが奏功して、いつしかそのシェフの片腕として多くの仕事を任されるようになっていた。その後二十歳でショコラティエの資格を取ると、その店の副シェフに昇格し、季節に合わせた商品の開発はもちろん、口溶けやカカオの香りに拘った製品作りを主軸に精力的に働いた。

 高校を出て福祉系の短大に通い始めた浅倉シヅ子は、その年の夏、初めてその店を訪れ、彼と出会った。
 スイーツ好きな友人と共に品定めをしていたシヅ子に、アルバートはぎこちない日本語でにこやかに話しかけた。「お嬢サン、ガトーショコラが焼きたてでおいしいデス。如何デスか?」
 その青い目の背の高い男性を見上げたシヅ子は、その瞬間自分の胸の鼓動が耳元で聞こえ始めたのにひどく狼狽した。
「あ、あの、ほしたら包んでくれはります?」
 はにかんで赤くなった顔を上げたシヅ子をアルバートも頬を赤くして見つめ、微笑んだ。「喜んデ」

 それから度々青い目の副シェフ目当てにその店に通っていたシヅ子は、ある日不意にそのアルバートからデートに誘われた。
 アルバートはその長身をくの字に曲げ、シヅ子の耳に口を寄せて囁くような声で言った。「お得意サマのお嬢さん、ボクとお茶でもいかがデスか?」
「え?」シヅ子は驚いた顔でアルバートを見上げた。
「そのチャーミングな赤い顔が好きデース」アルバートはにこにこ笑って言った。
 シヅ子19歳、アルバート22歳の秋のことだった。


 湯飲みの茶をすすっていたアルバートに目を向けながら、シヅ子は恥じらいをその顔に浮かべ、言った。
「わたし、アルにあの時好き、って言われたのん、今でも忘れへんわ」
「ワタシも忘れてマセンよ」アルバートは小首をかしげた。
「いきなりやったから、わたししばらく面食らって言葉も出えへんかったやないの」
「その時のハニーの驚いた顔も、ワタシ忘れてマセーン」アルバートは笑った。

 シヅ子はまるで少女のように頬をますます赤く染め、テーブルに戻ってアルバートの向かいに座り、テーブルの置かれ湯気を上げている湯飲みを手に取った。
「わたしらが初めて結ばれたんは、クリスマス・イブやったなあ……」
「そうデシタね。ワタシ、もうハッピー過ぎて死んでしまいそうデシタ」
「ほんまに?」シヅ子は上目遣いで夫を見て笑った。
「ホントホント」アルバートはたたんだ新聞をテーブルの端に寄せ、シヅ子の目を見て微笑んだ。「でも、お互い初めてで、何が何だかよくわかりませんデシタネ」
「そうやな。でも忘れてへんで、あの時その初めてのアルに優しく抱かれたこと」
「ワタシも、シヅ子の温かくて柔らかい身体を抱いて、夢心地デシター」アルバートはそう言って夢みるように指を組み、うっとりと目を閉じた。
「わたしも……まるで夢のようやった」


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