立春の頃-1
後ろ向きな気持ちに心が支配されている時ほど、私は空を見上げて歩く。これは幼少からの治らない癖だ。
だって、俯くと泣きたくなるでしょ?
無機質なアスファルトよりも、まだ希望が持てる広い空を眺め歩くほうがいい。
(そう思う事はおかしいかな…?)
心の中で自分に問いかけた。回答の代わりに失笑が零れた。
夢を持って憧れた世界。
それを叶える為の努力と忍耐。積み重ねてきた時間が中々報われない閉塞感。それが俯きたくなる今の私の姿形だ。
「あ〜ぁぁ…。昨日も散々だったなぁ…」
澄んだ藤紫の空に棚引く、朱を含む掠れた雲。
暦の上ではもう春なのに、まだまだ梅も咲かない日の出の遅い二月半ばの空。
早朝六時。始発を待つ小さな無人駅にはまだ人は居ない。私一人だけの時間が今日はなんだか無性に寂しくてやりきれない溜め息がひとつ落ちた。
「どうしてこうも上手くいかないんだろう…」
昨日の失敗を思い出すと同時に、
『お前、この仕事に向いてねーと思うわ。繊細さが全くないしな』
キッチンで唯一の味方だと思っていた那由多に、飽きれ顔で放たれた悲しい言葉を思い出してしまった。
「でも、これでも私だって…一生懸命頑張ってるんだよ…」
頭の中にいつまでも鮮明に響いて止まない那由多の声に反論をしてみた。悔しくて視界がぼやけそうになるのを堪えて、暁が拡がってゆく空を見つめて唇をギュッと結んだ。
昨日の失敗は、ほんのちょっとだけ鍋から目を離しただけの些細な事じゃないか。大体、あれもこれもって、やることを押し付けられるのを捌くのだって、凄く凄く大変なんだから。
そんな私の大変さなんて、那由多にはわかんないんだよ。
「那由多は…天才だもんね…」
私と同い年、二五歳。
十八の時に調理師になる為の学業を経て、
あおぞらという名の意味を持つ、人気老舗洋食店『Ciel bleu』のコックとして働いて七年。
那由多は、たった三年で副料理長に。そして今は店の料理長として才を発揮している。
料理の実力は、お店の忙しさと沢山のお客様の笑顔と賛辞で充分過ぎるくらいにわかってる。
加えて、ずるいくらいに整ったルックスが、女性客に人気なのもお店の人気を更に上げている事だって、嫌というほどわかってる。
そんな料理長と同期の私は、七年経ってもろくに料理を任せて貰える事のない、下っぱで仕込みに追われるダメコックだ。
才能もない。ルックスなんて…更に…。
「どうせチビでトロいバカですよ〜だ…。大体アンタが無駄にデカいだけだし…。てか、料理にルックスは関係ない……」
やめた。虚しくなるばかりだ。
私が唯一自信を持てる事といえば、どんなに大変でも弱音は吐かない、頑張る根性だけは負けないぞって気持ちだけだった。でも今はそんな気持ちさえも失ってしまいそうだ。
『無駄に頑張っても意味ねーんだよ。いい加減気付けよ、何年厨房にいるんだよ』
「無駄だったの…? 那由多には私の今までの努力は全部無駄に見えてたの…?」
もうダメだ。堪えきれないよ。
空から、冷たく無機質なコンクリートのホームへ視線を落としたら、やりきれなさが溢れてしまった。
崩れ落ちて思いきり泣いてしまいたい。
どうせこんな寂れた小さな田舎の無人駅に人なんて来ないでしょ?
独りぼっちなんだから、泣いてもいいじゃないか。
だけど、私の足は中々頑固で丈夫だ。崩れ落ちる事はないって、心のどこかではそう思ってた。
そんな私の背後から突然頬に、温かさがそっと押し付けられた。驚いて体が跳ねつつも、その温かさが缶コーヒーだろうと察知出来て。
言葉なく振り向くと、
「今日も寒いね」
焦げ茶色のふわふわした髪と同じ焦げ茶色の優しい瞳の男の子が、私にそう小さく笑いかけた。