笛の音 1.-19
「見たい。今日見たい」
有紗は笑った。苦笑でも作り笑いでもなかった。
「じゃ、いいですよ。ただし、変なことしなければ」
「えー……、全く可能性なし?」
「そういう可能性がない映画なんですよね?」
有紗は腕時計を見てからビールを飲み干して立ち上がった。「何時間の映画か知らないですけど、もう出たほうがいいですよね」
割り勘を申し出たが、明日死んでもいいから、と言って勘定は明彦が済ませた。男の家に行って二人きりになることがどういうことかは無論わかっている。自棄にはなっていない。思いの外冷静だった。明彦ならそうなってもいいと直感できた。明彦のような男と恋をしてみたいし、その明彦は結婚を意識する年齢だ。付き合ったら考えてくれるだろう。愛美が卒業するまであと四年、それが過ぎれば庇護は要らない。会社を辞めさせられても仕事を探し、妹を連れて生きていくこともできる。四年も待ってはくれないだろうから、切に迫ってきてくれるならば、――そこに彼の本気を窺えるのならば、今日抱かれてしまうべきだ。まだ二回しか会っていないが、そうなる予感がある。
何より恋情に裏打ちされたセックスがどのようなものか味わってみたい。
明彦と一緒にタクシーを拾うために外堀通りまで出た。
「おねえちゃんっ!」
聞き慣れた声で振り返ると、トートバックを胸に押し抱くように小走りにやって来る愛美がいた。予想だにしなかった愛美の登場に有紗は絶句したが、目の前に立ったのは紛うことなく妹だった。
「愛美……、こんなとこで何してんの?」
「へっへー……」
愛美はバッグから英会話のテキストを取り出して見せた。「八重洲の学校に通ってんだ。お母さんにはちゃんと言ってるよ」
「だって、愛美。どうしたの? そんなとこ行くお金……」
「あ、自分で出してるよ。割と安いからバイトで何とかなりそう。最初ちょっとお母さんに前借りしたけど」
そう言ってから愛美は姉の側に立つ男をニヤニヤとしながら見た。「その人はぁ?」
「え……」
どう言おう。すでに覚悟を決めて、あとはタクシーに乗り込むだけだった男のことを。
「どーも。その様子だと、妹さん?」
明彦は有紗が口を開く前にフレンドリーに話しかけた。
「そーですっ。前原愛美です。大学生でーす」
異様なはしゃぎようだ。愛美のノリがよほど可笑しかったのか、明彦が笑顔で、
「俺は森っていうんだ。おねーちゃんの彼氏」
と言うと、愛美は目を見開いた。
「おー!」
「嘘つかないでください!」
慌てて止めた有紗に明彦が笑って、
「――に、近々なる予定でいる、今はただの知り合い」
と言った。
「へー、おねえちゃんに手出すなんてチャレンジャーですね!」
「どういう意味?」
妹を睨む有紗を指さして、こういうとこです、と愛美が明彦に笑いかけた。
「なるほど、初めて見た。意外な一面見させてくれてありがとう」
明彦を前に仮面を被っていたわけではない。むしろ愛美の前でだけ見せる一面だ。明彦の言葉を聞いて、ふーん、お姉ちゃんも男の人の前では猫被ってるんだ、とずっと過ごしてきた姉妹だからこそ、言葉に出さなくても逆三日月の形にニヤけた愛美の表情が物語っていた。
「……じゃ、三人でどこか店、入る?」
明彦が二人を交互に見てから言った。えっ、という顔を向ける有紗に、仄笑いで一度小さく頷いた明彦の前で、
「行きます!」
と愛美が手を上げる。
「未成年者略取で訴えます」
すぐに有紗は愛美の手首を掴んで降ろさせた。
「むっずかしいコトバ言われちゃった。……ま、未成年を飲みに連れ回しちゃいけないね。……二人、岩本町でしょ?」
明彦が外堀通りの向こうに光る東京駅を指して先に歩き始めた。ゴネる愛美の背中を小突いて歩かせながら追いていく。歩道を歩いている時から、山手線に乗り込み、秋葉原に至るまでずっと愛美は明彦と話していた。どう知り合ったかを聞いた瞬間、人が多い山手線の車内で「えー! 合コン!?」と叫ばれて、あまりの恥しさに吊り革を持った腕に顔を伏せた。
「どーぞ、チューするなら、むこう向いてます」
総武線へと昇っていく階段の近くで気を利かせたつもりの愛美が距離を置いたが、たとえ付き合っていてもこんな人の多いホームではしないし、まかり間違ってしたならば、しているところ絶対見るに決まっている。
「……あの、送ってくれてありがとうございます」
「いや、帰り道だよ。今日は」
「それから」
思った通りニヤニヤとこちらを窺っている愛美を一瞥したあと、睫毛を憂えげに伏せた。「ごめんなさい」
「大チャンス逃した」明彦は笑って、「DVD、買っとく。いいよね?」
「……はい」
「しばらく死ねなくなった」
そう言って明彦は手を上げて総武線の階段を昇っていった。手を振り、階上のホームへ背中が消えていくのを見送って肩で息をついた。愛美の元へ戻り、ずっとからかわれながら昭和通り口から岩本町へ向かった。