笛の音 1.-18
「なにしてるんですか?」
「ヘロクボさんにメッセ送信中。『狙ってる子をデートに誘いたいんだけど、罪深くて、ドーンで、後味悪い映画って何?』って」
「……困ってません? オジサン」
「どうかな。……お、既読」
狙ってる――狙われているのだ。狙われていると知っていて、その主の前に立っているのなんて七年前の水戸駅近くのファーストフード店以来だった。東京に来てからも言い寄ってくれた男は何人もいた。だが悉く有紗は門前払いしてきた。当たり前だ。こんな女と付き合って僥倖を得る者なんてどこにいるのだ。
するとこうして明彦と牡蠣を食べていることが、ひどいことをしているように思えてきた。軽いノリで接してきているが、裏では切れる頭で懸命に計算しているのだろう。その労力があまりにも気の毒だった。
「森さん」
「んー?」
スマホをカウンターに置いて明彦が清爽とした貌を向けてきた。有紗に対するモチベーションの高さが伝わってくる。
「……座右の銘って何ですか?」
「うお、急にマクッてきたねー。どうしたの?」
ですかね、と言って有紗は耳元から垂れる髪を指に挟んで繰り返し撫でた。
「私を狙ってる人がどんな人か知りたいからです」
「ヤッバい、超重要なこと聞かれてる」
明彦はグラスを口にして、眉を寄せて喉を通した後、「前原さん、もしもうすぐ死んじゃうとしたらどうする?」
「話逸らさないでくださいよ」
「逸らしてないよ。質問に答えようとしてる」
熟考もなく答え始めたのだから、真面目に常々思っていることを披瀝してくれようとしているらしい。有紗は明彦の質問返しを改めて考え、
「遺言とか、書くと思います。家族に宛てて」
脳裡で愛美の背後に浮かんだあの男を『家族』から払い退けてから言った。
「それだけ?」
「……あとは、悔いがないように、やり残したことがないように色々すると思います」
残される愛美のために、あの男を殺しておこうか。いや、そもそも明彦の問いが誤っている。自分は決して愛美より先に死ぬわけにも、傍から居なくなるわけにもいかないのだ。
「そっか、それが普通だよね」
「何なんですか? その質問」
「もし」明彦は腕を組んでカウンターに置き、有紗の方ではなく、逆さに吊られるグラスが並ぶ棚を見ながら言った。「『もし明日死ぬんだとしたら、君は生き方を変えるのか?』」
「……」
有紗は髪を弄うのを止めて明彦の横顔を眺めた。もう笑ってはいない。瞳は力強く前を向いていた。
「――『では今の君の生き方は、あとどれくらい生きるつもりの生き方なんだ?』」
言われた言葉を有紗は何度も頭の中で咀嚼した。何気なくネットを見てた時に出会った、昔の革命家の言葉だ、あまりいい死に方をしたとは思えないけど、と明彦は有紗を向いて少しだけ笑った。
「今を頑張って生きる、ってことですか?」
「そういうことかな……、でも明日死ぬんだとしても変えない生き方だから、難しいよね」
そうですね、と言って有紗は溜息をついて明彦から目線を逸らした。
「前原さんは?」
「……え?」
「座右の銘」
暫く黙った後、内緒ですと言う有紗に、ひっでえと明彦が笑った時、カウンターにあったスマホが震えた。
「お、来たよ、ヘロクボさん」
「何て答えたらいいか困ってたんじゃないですか?」
今の私みたいに、と有紗が心の中で自分を卑下していると、
「……ミステリー系って大丈夫? 金田一シリーズだって、コレ」
と、スマホの中のオジサンの回答を読みながら明彦が言った。
「じっちゃんの……」
「じゃなくて」明彦はふき出して、「その元ネタ。じっちゃんそのもののほう。原作、横溝正史」
「ごめんなさい、あんまり本とか読まないんで。どんな話ですか?」
「それ知ったら面白くなくね? 俺も読んだことないけど。ヘロクボさん曰く……、トリックより殺人に至った経緯を楽しむ映画。――え? 何だそりゃ? ――殺人に至るまでの人間の凶々しさ、業が生む忌まわしさをどうぞ。……何回か映画化されてる有名な作品、だってさ」
人間の凶々しさ、忌まわしさ。面白いかもしれない。「……ヘロクボさん、『でも、どう考えても見終わったあと、女の子といい雰囲気にはなりません』だってさ。ダメじゃん!」
「それ、いいですね。そういう雰囲気にならないってとこが特に。……どこでやってるんですか?」
頭を抱えた真似をする明彦に、有紗が笑って問うた。
「いや、昔の映画だって。DVD」
「じゃ、むしろそれがダメじゃないですか」
「ダメじゃないし」明彦がスマホを下ろして有紗の方を見た。「俺の家、DVDデッキちゃんとあるよ? ブルーレイでも可」
有紗は眉を顰めるでも、睨みつけるでもなく、じっと見据えてくる明彦の視線を受け止めた。こんな女落としてどうするんだろう、そう問いたい妄想に捕らわれつつ、暫く間を置いて、
「明日死ぬんだとしても、見たいですか?」
と言った。