笛の音 1.-17
「今日は思い切り声を出せるからな」
叔父の汚濁に満ちた汗も、唾液も、体液も全身に浴びせられ、今度は肌という肌に塗りこまれた媚薬による掻痒はどれだけ叔父の男茎で貫かれても癒えず、部屋に入る前に言った叔父の言葉の通り、有紗は罵声も嬌声も大声で叫んだ。叔父は愛美には興味がないと言い、何度も男茎を回復させる最中に自分に母を重ねる譫言を吐いた。叔父の標的は自分で、すなわち自分がこの猥行に耐えさえすれば妹は守られるのだ。日がな一日姦されて家に帰ると、強い疲労に襲われて早くに眠った。義母の目にも妹の目にも、あたかもスポーツをして帰ってきたように見える信憑性を与えて。
携帯が震えて目が覚めた。既に日が高く、部屋の中は明るかった。
「有紗さん、どうしたの?」
直樹に一刻も早く会いたいから松戸まで行くと言っていた。もうその待ち合わせの時間は過ぎているのだろう。
「体調悪い?」
「ううん……」
心配そうな直樹の声を布団の中に身を丸めて聞いた。執拗にボディソープで拭い、シャワーで洗い流したはずなのに、昨日塗られた媚薬の作用がまだ残っている。
「どう……、したの?」
体調が悪いんじゃなかったら、来ない理由は一つしかないでしょ?
「……ね、直樹」肌の疼きに熱い息を吐いた風音を聞かせながら、「もう帰って」
「えっ、どうして?」
「もう……、来なくていい」
「え……」
直樹の声は震えていた。背後から松戸の雑踏が聞こえる。そうだ、東京には入る必要はない。
「どういうこと?」
「どういうことって……、そういうことだよ」
呆れた笑いを作って聞かせてやった。胸が痛い。刺すように痛い。「……もともと告白されたから付き合っただけだもん。直樹に言われるまで、好かれてるなんて知らなかったんだし。ううん、直樹の存在じたい、知らなかった。でも、顔がカッコいいから付き合ったの。顔がね」
「……」
まだ泣けない。電話が繋がっている。
「新しい学校の編入手続きしに行った時、カッコいい子に声かけられたの。直樹に負けないくらいカッコいい子。……同じくらいカッコいい子ならさ、二時間もかかるところにいるのより、すぐに会えるほうがいいじゃん。そうでしょ?」
「……ひどいよ」
「うん、ひどい私でごめんね。イヤでしょ? 私みたいのが彼女だと。……そうだ、合格おめでとうって言うの忘れてた。ごめんね、エッチさせてあげられなくて。きっとさ、直樹だったらよりどりみどりだよ」
そら言が次々と口を突いて出てくる。「私も、こっちでカッコいい子とエッチすると思う。東京すごいよ、カッコいい子、いっぱいいる。声かけてくれた子じゃなくてもさ、もっとカッコいい子もいるかもしんない。そしたら、その子じゃなく――」
電話が切れた。有紗は電話を握りしめて胸に押し抱きながら、ともすれば暴れ出したい衝動を抑えるために身を凝固させた。
死にたい。しかし叔父の暴虐を糾弾せず、直樹に別れを告げたのと同じ理由で、できない。
だから恋愛映画は見たくなかった。自分とは縁の無い話をお金と時間を費やしてまで見たくはなかったし、逆に自分に沁みる話なのであれば、なおのこと避けたかった。
「あ、そうなの? 女の子ってば、こういう映画好きなんじゃないんだ?」
「ごめんなさい、女の子らしくないんです」
有紗は笑ってフォークに刺した牡蠣を食べた。滑らかでぷっくりとした身の甘味が口内に広がる。明彦が、――SNSの中で映画好きのオジサンが薦めた映画は、甘く切ない青春時代の恋の映画でございます、と謳っていた。大人気のティーン・アイドルグループの一番人気のメンバーと、未来の実力派女優の卵、決して孵っていない、あくまでも卵の女の子が初主演を務めている。前評判は最悪に近いものだったが、試写会が開催され始めたあたりから「割と良い」という口コミが広がっているらしい。割と良い? どう良い? アイドルに相応しいルックスの子が主演している高校時代を描いた映画を、私が見るどんな理由がある?
有紗は牡蠣の旨味の中に、蘇って来ようとする記憶を薄めた。
「じゃ、前原さんはどんな映画が好きなの?」
物思いに黙った有紗の顔に沈鬱の兆を見たのかと思えるほど、明彦の問いかけは絶妙のタイミングだった。
「何だろ……。ちょっと怖いやつかな」
「え、ホラー? 俺苦手。きゃーって抱きついちゃうよ?」
「違いますし、抱きつかないで下さい」
「じゃないの?」
有紗はフォークを置いてグラスビールを一口飲むと、正面を向いて上目遣いに暖色のダウンライトを見た。
「なんか、……何て言ったらいいんだろ、人の罪深さをドーンって描いたようなやつですかね」
「重いやつ? ドーンてなって、なーんか後味悪いっていうか」
「ああ、ですね。後味悪いって、当たってると思います」
「へぇ……、ドーンで後味悪い、ね……」
明彦が呟きながらポケットからスマホを取り出して操作している。