9章-4
一分後――本当はもっと短い時間だったのかもしれない、静寂を破ったのは匠海だった。
「なあ、ヴィヴィ……俺、お前に……何か、した……?」
一つ一つの言葉を選ぶように匠海が発した事に、ヴィヴィははっと顔を上げ、匠海を凝視する。
ヴィヴィと同じ灰色の瞳には、明らかな困惑が浮かんでいた。
そして一度目を合わせたら、瞳を逸らさせない強さでもってヴィヴィを見下ろしてくる。
1ヶ月ぶりにまともに匠海と見詰め合ってしまったヴィヴィは、途端に跳ね上がる鼓動と混乱した思考で、何を言い返せばいいのか分からなくなる。
「え……な、に……?」
ヴィヴィがやっと口にした言葉にもならない音の羅列を聞き、匠海はさらに身を乗り出してヴィヴィに詰め寄る。
「1ヶ月程前から、俺のこと避けてるだろう? 何か気に障るようなことした? 頼むから言ってくれ……ちゃんと謝るから」
「………………っ」
(お兄ちゃん……っ)
心底憔悴したような匠海の様子に、ヴィヴィの咽喉が詰まる。
悪いのは匠海ではないのに、罪深いことを考えて匠海を避ければ全て解決すると逃げている、子供っぽい自分なのに――。
この人は妹である自分との事を、ここまで真剣に考えてくれていたのだ。
嬉しさなのか、悲しさなのか判別できないぐちゃぐちゃの感情が、ヴィヴィの舌を硬直させ、言葉にすることを阻む。
ヴィヴィに出来ることと言えば、ただ必死に匠海を見つめ返して頭(かぶり)を振ることだけだった。
「言ってくれないと、分からないよ」
言葉を発しないヴィヴィの頑(かたく)なに見える態度に痺れを切らしたのか、匠海はホルターネックで剥き出しのヴィヴィの肩を掴んだ。
その途端、ヴィヴィの身体がびくりと大きく震えた。
それを感じ取った匠海が、まるで熱いものにでも触れたかのようにとっさに手を放す。
「…………ヴィヴィ?」
驚きを隠せない表情で、匠海がヴィヴィを見つめていた。
(やだっ! 私――!!)
今までなら何でもなかったスキンシップに、過剰な反応を見せてしまったヴィヴィは、何とかフォローしなければと口を開き、乾いた笑いを発した。
「あ……あは。お兄ちゃんの手、冷たかったから、ビックリしちゃって……」
「悪い……」
ヴィヴィに触れた手を匠海がギュッと自分で握りしめて、謝罪する。
ヴィヴィはふるふると首を振ると、咄嗟に思い付いた言い訳を口にした。
「お兄ちゃんは何もしてないよ。ヴィヴィはただ『お兄ちゃん子』を卒業しただけ――」
「……そうなのか?」
ヴィヴィの真意を測るように、匠海は妹の一挙手一投足を注視しているようだった。
ヴィヴィは無理やり明るい笑顔を作り、大きく頷いてみせる。
「そうだよ。それにお兄ちゃんが言ったんじゃない――『いい加減兄離れしろ』って」
笑顔を張り付けて苦し紛れの言い訳をするヴィヴィの努力は実ったらしく、匠海は「そうか……」と呟くと、安堵の笑みを溢した。
「そうだよ。なんだと思ったの?」
可愛く首を傾げて見せると、匠海はやっと納得してくれたみたいだった。
「そうだな、そうだよな。ヴィヴィも来年には高校生になるんだし……兄離れくらいするよな」
そう自分を納得させるように呟いた匠海を見て、ヴィヴィは駄目押しをした。
「ヴィヴィ、好きな人ができたの。だから――」
「なるほどね。こいつ――現金だなっ!」
好きな男子が出来たから、やっと兄離れする気になったのだと悟った匠海は、破顔してヴィヴィの金色の頭をぐしゃぐしゃに撫でまわした。
「わっ! もう、やだっ! ぐしゃぐしゃ〜」
必死に自分を取り繕い、可愛い妹を演じるヴィヴィをベッドに置いて、匠海は立ち上がった。
「じゃあね。明日のフライトで日本に帰るんだから、夜更かしせずにちゃんと寝ろよ?」
「は〜い。オヤスミ!」
「おやすみ」
匠海が扉に向かい廊下に出て行くのをヴィヴィは笑顔で見送る。
パタンという音を立てて閉じられた扉を確認した途端、上がっていた口角がゆっくりと下がる。
「そうだよ……ヴィヴィは、お兄ちゃん離れ、しただけ――」
静かな部屋に、ヴィヴィの掠れた独白が響く。
だから――、
(何も考えるな……何も、感じないで……そうしていたら、いつかきっと――)
ヴィヴィはベッドに倒れこむと、自分の肩を両手でギュッと抱きしめて自分にそう言い聞かせ続けた。