10章-1
鏡哉は仕事を終え、すぐにマンションへと引き返した。
美冬が4日も学校を休んでいたことが、どうも気になっていた。
彼女は自分の体力を考えず、いつも無理をする。
(もしかしたら、体調が悪かったのではないか――?)
そんな美冬を無理やり何度も抱いたのだから、鏡哉が彼女に対して怒ることなどできないのだが。
マンションの駐車場に車を止め、鏡哉ははたと気づく。
自分は美冬を犯しそうになってから、半月もの間、彼女を避けていた。
それなのに結局美冬を抱いてしまい、今、どんな顔をして彼女に会えばいいというのか。
(あの時は――このまま一緒にいたら美冬を美冬を犯してしまう――ただそれが怖かった)
だから鏡哉は現実から逃げていた。
美冬に会いさえしなければ、すべてが解決すると。
彼女に帰る家と大学へ行くための給料を与え続けることはできると。
そう、自分に言い訳をして――。
しかし――。
(今は違う。美冬が、彼女のほうから自分に抱かれたいといったのだ)
その結論に後押しされるように、鏡哉は車から降りた。
早足で部屋へと戻り、玄関のドアを開ける。
美冬はまだ寝ているのだろうか、部屋は闇に包まれていた。
電気をつけ時計を確認すると、もう21時を回っていた。
真っ直ぐに美冬を寝かせていた客間へと向かう。
がちゃり。
音を立てて扉を開くと、リビングの明かりが部屋へと差し込む。
光の帯が伸び、ベッドの上が照らされる。
しかしそこは綺麗に整えられ、人のいる気配はなかった。
「美冬……?」
なぜか胸騒ぎがして鏡哉は美冬の部屋へと駆け出す。
そこにも美冬はおらず、しんとした闇に包まれていた。
「美冬? どこにいるんだ?」
鏡哉はメゾネットの部屋全体に聞こえるように声を張る。
案の定返事はなく、鏡哉は全ての部屋を確認したがどこにも美冬の姿はなかった。
ぞくり。
背筋に悪寒が走る。
先ほどの胸騒ぎがやがて確信へと変わり、美冬の部屋へと戻る。
クローゼットを開けると、そこには鏡哉が彼女に送った服が何枚も掛かっていた。
鏡哉はほっと胸をなでおろすが、しかし何か違和感が残る。
勉強机として使わせていたデスクの引き出しを開けると、そこは空になっていた。
(美冬……?)
「……うちを、出たのか?」
その自分の言葉に、足ががくがくと震え始めた。
クローゼットへと引き返す。
作り付けの引き出しを開けてみると、そこは空だった。
美冬は鏡哉から買い与えられたものはすべて置いて行ったのだ。
誕生日に贈った白いワンピースでさえ。
「美冬……どうして――」
鏡哉はふらふらとリビングへと出て、ソファーの上に足を投げ出すように腰を下ろす。
すると、先ほどは気が付かなかったが、ローテーブルの上に一通の封筒が置かれていた。
鏡哉は上半身をばっと引き起こして、その封筒を手に取り中身を取り出す。
便箋には丁寧な文字が連なっていた。
『 新堂 鏡哉様
勝手ながら、一身上の都合で雇用関係を解消させていただきたく思います。
約一年半、大変お世話になりました。
どうかお体をご自愛ください。
鈴木 美冬 』
ひどく簡潔な文章だった。
そこからは一年半、濃密に接してきたことに対する思い入れは感じられない。
封筒をひっくり返すと、中からはマンションの鍵が転がり出てきた。
「………」
頭の中心がぼうと痺れたようになり、うまく思考できない。
(ここを出てどうする。また無理なバイトをして体を酷使し、無茶な生活を送ろうというのか――)
ここに来たばかりの美冬を思い出す。
両親の死によってどん底の生活に落とされ、親族にも放置されたというのに何かを呪うでもなく、自分の身を削りひたすらに毎日を生きていた。
だが、本人が一番切望していた勉学はおろそかになり、それには心底困り果てていた。
彼女はあの生活に戻りたいというのか。
(私と一緒にいることさえ、苦痛になってしまったというのか――)
ギリっ。
気が付くと奥歯を噛みしめていた。
腹の底からふつふつと、何に対する物なのか分からない怒りが込み上げる。
「……るさない……、私から離れるなんて、絶対に、許さない――!」
鏡哉が掌の中の便箋をぐしゃりと握りつぶした音だけが、広い部屋の中を満たした。