10章-3
美冬は皮膚の薄い眉間に皺を寄せると、くるりと元来た道を戻り始めた。
この高校には正門のほかに裏門があった。
大通りから大分遠い門なので、教師にも生徒にもほとんど使われてはいない。
校庭を突っ切って裏門に回ると、そこには誰もいなかった。
ほっとして門をくぐりながら、美冬は高柳に申し訳なくて俯いてしまう。
(もしかしたら高柳さん一人で、心配してきてくれたのかも……ごめんなさい)
美冬は心の中で謝ると、普段使わない裏門からの道を確認するために顔を上げた。
「………」
どさり。
学生鞄が地面に落ちる。
美冬の黒目がちの大きな瞳が見開かれる。
「鏡哉、さん――」
美冬はそう呟くと、ばつの悪そうな顔をして俯いた。
その視線の先に、鏡哉のスラックスの足元が入る。
黒く艶やかに磨き上げられた靴先が近づく度、美冬の小さな胸が鼓動を早くする。
半袖のセーラー服から伸びた腕を鏡哉に掴まれそうになり、美冬はとっさに手を引いた。
「……話がある」
頭上から鏡哉の低い声が降ってくる。
「……私には、ありません」
美冬は自分でも驚くほど、硬い声でそう言い返す。
「無責任なんだな――」
まるで責めるようなその言葉に、美冬はとっさに顔をあげそうになるがぐっと堪える。
「私を誰だと思っている。日本で有数の企業のトップだ。一方的に辞めたいと言われても、君が働いていた期間に私に関して見聞きしたことを外に漏らさないとは限らないだろう?」
「………」
美冬は一瞬何を言われたのか分からず、戸惑った。
(な、に……私が、鏡哉さんの弱みなんかを、ライバル会社に売るとでも言うの――?)
あまりの言い分に、悔しくてギュッと拳を握る。
「私、そんな事――」
「口約束で済むと思うのか? 現に君が私と暮らしていた事実だけでも、私を今の座から失墜させるのに足るというのに」
美冬を遮ってそう言い渡した鏡哉に、美冬はとうとう面を上げてしまった。
今まで見たことのない鏡哉の侮蔑を含んだ視線とぶつかる。
ずきりと美冬の心が痛む。
「……どうしろと」
視線を逸らしてそう呟いた美冬に、鏡哉は近くに止めてあったベンツの助手席のドアを開いた。
「乗れ」
「……嫌だと言ったら?」
半月かけてやっと鏡哉を忘れる決心をしたのだ、もう美冬は鏡哉の傍に行きたくなかった。
「明日も明後日もここに来る。学校に来なければ、興信所を使って君の住んでいるところを調べ上げる」
揺るぎないその鏡哉の返事に、美冬は肩を落とした。
進められるがまま助手席のシートに収まると、鏡哉はすぐに車を出した。
静かなモーター音を上げ、車は首都高に乗る。
美冬はてっきり車の中か近くの喫茶店で、黙秘の為の契約書にサインをするのだと思っていたのだが、首都高に乗る必要があるだろうか。
「どこに向かっているのですか?」
不安になって運転席の鏡哉を見つめる。
「うちのマンションに決まっているだろう」
鏡哉は前方から視線を逸らさず、当たり前のようにそう言う。
「契約書にサインをするだけなら、その辺の店でもできるじゃないですか!」
美冬は声を荒げて抵抗した。
「内容が内容だ。他の者に聞かれてはまずい」
「嫌です! おろして下さい」
「駄目だ。君には契約する義務がある」
「……っ! では、そこに高柳さんを仲裁役として立たせてください」
鏡哉とあの部屋で二人きりになるのは美冬としては耐え難かった。
美冬の出した条件に、鏡哉の声音が変わる。
「高柳、だと……?」
ふっと鏡哉から嫌な嗤いが漏れる。
「そうか、高柳に取り入って。だから独り暮らしが出来たんだな」
「………!」
鏡哉のあまりの言いように美冬が反論しようとした時、マンションの駐車場に車は滑り込んだ。
所定の位置に止め、鏡哉が運転席から降りる。
助手席から下りない美冬に、鏡哉が回り込んでドアを開ける。
「降りろ」
「……携帯で高柳さんを呼んでください。到着されるまで、部屋には入りたくありません」
美冬はがんとして譲らなかった。
「携帯を会社に忘れた。疑うのなら調べてみればいい」
鏡哉は通勤に使っているブランド物のバッグを美冬に突きつける。
「……部屋から電話して頂けるのでしょうね?」
さすがに人の鞄を漁る気にはなれず、美冬はそう確認する。
「当たり前だ。それが君の条件なのだから」
鏡哉はそう言うと美冬からバッグを受け取り、先にマンションのエントランスへ向けて歩き出した。