4. Speak Low-18
「条件もちゃんと守るよ」
「そうしてください」
「……結婚してくれる?」
「条件守ってくれるなら、別にいいよって言ったじゃん」
目を逸らしたまま言うと、平松がポンと甲を叩いてきて、
「悦子ー?」
と命令口調に変えて念押ししてきた。もう何だよ、こんな時にまで、と思ったが、
「わかりました……」
と小さく言った。そんなすぐプロポーズのやり直しなんかしなくていいんだよ、と心の中で毒づいて、
「ちょっと……」
と席を立とうとした。
「どこいくの?」
「トイレ。……い、言っとくけど、二人じゃ入んないからね?」
力が緩められた平松の掌の中からスルリと手を抜いて通路に出た。足元が歪む。鼻を啜りたいし、瞬きもしたい。しかし平松が濡れ衣で父親に殴られてしまうかもしれないから、トイレの中で一人になるまで我慢する。
みんなそんな目で見んなよ。みなとみらいのレディースショップに足を踏み入れた時、凛としたスーツ姿で冷然とした美しさを放つ女が入ってきて店員も他の客も一瞬動きを止めた――、気がした。悦子は周囲の視線を気にしないように、レールに吊られたトップスを一枚一枚見ていく。思い切って入ってはみたが、大学生か二十代前半のOLくらいしか見当たらないし、衣装を眺めているうち、女の子らしさを標榜する彼女たちしか着こなせないと思えてきた。清楚なスタイルを買うならどこがいいか、と、別の理由にかこつけて彩奈におすすめのショップを聞いたのは間違いだったかもしれない。かといって、数着チラ見しただけで出ていくのも非常に恰好悪い。悦子は何気なさを装って棚やレールにかかるフェミニンな服を眺めていった。
「何かお探しですか?」
店員が声をかけてくる。探している。探してるんですけれども……。
「ちょうど秋向けを入荷させていただいたばかりなんですよぉ? 夏物お探しですか? それとも秋物です?」
曖昧な返事を返している悦子に対して店員は果敢にビジネスを仕掛けてくる。「イメージとかおっしゃっていただければ、オススメもできますからご遠慮無くおっしゃってくださいね」
それを聞いた悦子は、くるっと、これまた店の基調に相応しい可愛らしい店員を見下ろして咳払いを一つした。あんたも仕事でやってるんだ、どんなニーズでも応える覚悟はできてるんだろうな?
「あの、上手く言えないんですけど……」
「お仕事の時に着られる感じです? それともプライベートですか?」
どっちだ。プライベートなのかオフィシャルなのかよくわからなかった。だんだん顔が熱くなっていくのが分かる。いや、だから、この店員も仕事の一貫として職務を果たす心構えがあるはずだ。気負う必要はない。
「あの、その……」
悦子は少し周囲を気にして、声のトーンを落とした。「……のときの服なんですが」
「……は?」
「……、……か、か、彼氏の実家に初めて行く時の服を探してます……」
とてつもなく恥ずかしい思いをして手に入れた服を身にまとって、悦子は平松と横浜線に乗っていた。朝、着替えた悦子を見るなり、びっくりした、すごく可愛いね、と臆面もなく褒めた平松に照れのあまり反射的に蹴りを入れそうになった。膝丈のピンクのフレアスカートにフリルのついたパフスリーブのブラウス。服を着てからドレッサーの前に座るとどう考えても合わない化粧を一からやり直した。本当にこれで大丈夫なのか?、と何度も鏡の前で確認する悦子を、遅れるよ、と平松が煽ってきたから確信が持てないままに家を出たのだった。静岡の実家に行った時は悦子がラフな恰好だったのと反対に、今日は平松がTシャツにジーンズ姿だ。乗り換えの横浜駅構内の店舗のガラスに映った姿を見て、なんだか習い事に子供を連れて行く若いお母さんを見た気がして、若作りが足らなかったかと不安になってきた。一つ隣の東神奈川は始発駅だから座ることができた。これを降りたら平松の家まで一直線だ。
「緊張してる?」
「するよ、そりゃ」
「しなくていいよ」
静岡に行った時に悦子から仕掛けた会話の立場が逆になっている。緊張している悦子を嬉しそうに見ている平松が癪で、座席の端に座っていた悦子は思わず傍の手摺りに肘をついて脚を組みそうになったが、今の自分の格好を思い出して慌てて押しとどめた。ももの上に置いたバッグに両手を乗せて、ふーと深呼吸をする。
「……お母さん、何か言ってた?」
「なにが?」
なにがじゃねぇ。悦子は平松の方を見ずに、バッグの持ち手をじっと見つめながら、
「今日、私が行くこと」
「すごい喜んでる」
本当かよ? これで家に着いてから姑さんにネチネチやられたらもう泣いちゃうぞ? 私が泣くとあんたも都合が悪いだろ?
「でもさ」
「……え?」
でも、の言葉に悦子がビクリとなる。
「……ウチのお母さん、変わってるんだ。たぶん、悦子びっくりすると思うけど……」
「ウチのお母ちゃんみたい?」
「悦子のお母さんは変わってる人じゃないよ。シャンとしててカッコいいじゃん。ウチのお母さんは……、まあ会えばわかるけど」