4. Speak Low-17
「なんじゃ、許しが出たんやから、もっと嬉しそうにせ」
そもそも私にはそのつもりはなかったよ。そう、今日この家の門をくぐるときにはこんなことになるとは思ってもみなかった。
「そうだよー、悦ちゃん。親孝行ら」
早智が悦子の背中をポンと叩いた。親孝行と聞くと、父親が「めでたい席」だと言ったのを思い出す。結果的に電話口で兄が求めていたとおりになった。寿司を食べ始めて以降は祝の詞はついぞ口を出なかったが、父親も母親も喜んでくれたのかもしれない。たとえそれがこんなのでも。
「佳子おばちゃんには俺から言うとく」
「そうだよ。絶対だよ?」
タクシーに乗り込むと兄夫婦に頭を下げた。ふと二階を目にすると、幸久が両手を振っている。カードに詳しい親戚ができそうなことを祝福しているようで、平松が手を振ると、更に激しく手を振ってきた。
角を曲がって実家が見えなくなると、ふー、と悦子は息をついた。えっと駅まででいいですか、と聞いてくる運転手に、じゃ掛川駅まで行ってください、と言ってシートに身を委ねる。どっと疲れが出てきた。運転手も話しかけてこない。幹線道路に入ってスピードを上げるタクシーの中は無言だった。
やがてガサゴソと、平松と悦子の間に立てておいていた紙袋が音を立てたかと思うと、くぐってきた平松の手が悦子の手を握った。ピクリと顔を平松に向けて目を開けると優しく微笑んでいる。そんな顔すんなよ、何言いたいか分かってるけど、運ちゃんが聞いてるからちょっと待っとけ。
掛川駅に着いてタクシーを降り、各駅停車の新幹線へ向かっている間も手を繋いでいた。片手で悦子の分の紙袋も持っているから相当な重さだろう。悦子だって一つくらいは持てるのだが、手を繋ぐ姿に男らしさを感じたから平松には悪いがそのままにした。新幹線は悦子たちを待っていた。追い越しの新幹線が遠くの線路を通過していくのを聞きながら、平松と横並びで席に着いた。
「もう、ネクタイはずしたら?」
「いや、大丈夫」
そう言って平松は肘掛けに置いた手の上に悦子の手のひらを伏せさせて指を組んで握ってきた。やがて新幹線がゆっくりとホームを滑り出し始め速度を上げていく。
「……条件って?」
手を握ったまま平松が静かに問うた。歩いてきた時よりも握る手が強い。
「聞きたい?」
「うん」
悦子は少し首を伸ばして前方を伺った。同じ車両の乗客は離れたところに座っている。「……えっとね」
「うん」
「私、ウエディングドレス着たいの。……結婚式したい」
「……うん。しよう」
「だからね、それまで赤ちゃんは、できないようにしてほしい。言ってる意味、わかってくれる?」
悦子は俯きながら言った。
「わかった。必ず約束守る」
「よろしく……」
いい歳してドレスが着たいだの、今まで恋情と性楽の果てに軽く許してきたのにここにきて避妊を要求するだのしている自分に恥ずかしくなって、悦子は逆側の肘をついて頬を乗せて平松から目を逸らした。
「条件はそれだけ?」
「そうだね」
恬淡と応えると、平松が握った悦子の手の上にもうひとつの手を乗せて挟みこんできた。
「……帰る前にさ」
「ん?」
「悦子がトイレに行ったでしょ? それを待ってる時に、お父さんとお母さんが頭を下げてきた」
「うそ?」
悦子が顔を上げて平松を見る。笑ってはいない。真面目な顔をしていた。
「うん」
平松が紙袋を提げて悦子がトイレから出てくるのを待っている間に、父親が少し足を引きずって玄関先を進んで出た。すると母親が父親の足元に、硬い廊下の上に正座をする。空気を察知した早智が幸久をおっぱらった。
「平松さん。……あーんな頭いいんだか悪ぃんだかよくわからん子だけど、ま、よろしくおねがいしますよ」
父親が静かに平松を見据えて言った。
「……男女みたいに育っちまったのは親のせいです。昔っから人にやたら好かれとって、まあ、困ってる奴に頼まれたら断るなって教えられてるから、ずっと気張って生きてやがる。てっきり平松さん、あの子の尻に敷かれとるんだらと思うてましたが、今日あの子を見てたら、どうも、あんたを頼りにしてるようで。どうかよろしく導いてやってください」
そう言って頭を下げると、母親も一緒に廊下に額づいた。平松が恐縮して頭を上げてもらうように言うと、しかしの、と父親が笑いながら顔を上げた。
「権藤工務店の社長令嬢を返品はナシにしてくださいよ? ご近所に顔向けでけん。……もしも悦子が泣くようなことがあったら……」
とグッと拳に力を入れてみせたから、平松は、命に換えて、と言った。
「ふうん……、どうしちゃったんだろ、お父ちゃん」
悦子はまた頬杖をつくと目線を通路に向けた。「……木枝さんのことバレたら、あんたタコ殴りにされるね」
悦子が勝手に惑って大泣きした件だが、平松は甲をさすって、
「泣かさないように頑張るよ」
と言った。
「その触り方、オヤジ臭い」
だが手の甲からは言いようのない温もりが全身へ流れこんできていた。