4. Speak Low-16
「……いつ?」
「こ、このあいだ……」
「どこで?」
再度、えっ、という顔を見せた平松の黒目が父親の方をチラリと見てから、少し小さな声で、
「大森海岸……」
と言った。その時か。思いだせ、と悦子は記憶をたどったが、平松と『ごっこ』をしたという記憶しかない。ラブホテルに入ってから出てくるまで、何を聞いて何を口にしたか憶えていない。憶えていられないほど乱れてしまったという事実しか浮かんでこない。悦子は立膝で座卓に手をついたまま頭から煙を噴きそうなほど紅潮した。
「平松さん、こんなプロポーズも憶えとらん馬鹿女でもいいんだら?」
父親が可笑しそうに笑いながら言うと、早智が新しいお茶を持って入ってきた。
「話終わったぁ?」
ニヤニヤしながらお茶を並べている。
「いや、終わった終わった。ハラ減ったけ、早っちゃん、寿司取ろう」
父親が言うと平松の方を向いて、「その体や。一人前では足らんやろ?」
いや、平松はこの体のわりにはそんなに食べない――、いや違う。だいたい私を落とすときには夜景を見せてサプライズプレゼントまでしてくれたのに、プロポーズがラブホテルの中、しかもアレで意識朦朧としている時って何!?
「終わってない!」悦子は叫ぶと平松に詰め寄った。「指輪は?」
「え」
「給料の三ヶ月分」
「ふるっ」
と早智が呟いて、んじゃお寿司取るから、幸久以外はワサビ大丈夫だなぁ、と言って出て行った。
「……あ、んと、ボーナスが出たら買いに行こう」
「ブルガリ?」
「え……、あ、うん、わかった」
安請け合いするな。きっと平松の給料の三ヶ月を寄せ集めても足らない。悦子はゆっくりとお尻をついて、不機嫌そうな顔で腕組みした。
「……で、どうするんら? 悦子」
「え……?」
父親は悦子を鋭い視線で見据えながら、
「その様子だと、お前、結婚する気なかったんだら?」
と言った。無いわけではない。むしろ今日ここに至るまで何度も考えてました。でもどうしよう。仕事は続けていいのかしら。上司と部下で夫婦なんてやりにくくない? アミューズメント企業の案件が無事とれて、間違いなく悦子も参画することになるだろう。並行して人生の一大イベントも進められるかしら。
悦子は眉を寄せたまま父親の顔を見返して、
「……一つ条件がある」
「条件? なんだら?」
可笑しそうな笑みを浮かべたまま悦子を見やったが、悦子はその視線から逸らして平松を見た。
「……ここじゃ言えない」
「なんだ、そりゃぁ」
「いいの。後で言うから」
ふー、と息をついた父親は、
「わけわかんねぇ女だなぁ。ま、じゃ、平松さんがその条件を呑んでくれりゃあ、結婚するってことでいいんだら? 日取りが決まったら早めに教えろ」
ともう頭の中は寿司で平松が持ってきた大吟醸を飲むことが大半を占めていて、悦子の複雑な気持ちを慮る様子は微塵もなかった。
「……あともうひとつ」
「なんら、うるせぇ女だな」
「もうひとつ!」
寿司を早く食おうと急かす父親の前で、バン、と座卓を叩いて平松を見た。まだ座布団を外して畳の上に正座している。何だよ突然……、じゃないのか。ここに至るまでの状況を省みると、ごく自然な流れだったのかもしれない。平松が一緒に実家に来たがったのも、これを父親に伝えるためだ。
「……プロポーズは、やりなおせ。いつか」
悦子は震える声で平松に言った。もっと私が泣きそうなシチュエーションで、と思って、そうしてもらえた時のことを勝手に想像して震えたのだ。
「ってことだから、平松さん、すみませんがもう一回お願いできますかねぇ」
と父親が言って、入ってきた母親に大吟醸を渡しながら、「湯のみ三つ……、いやみんな飲むだら? 六つかの」
「五つだわ。お父さんは薬飲んでるから、飲めん」
と言い捨てて出て行くのを、なんじゃあ、めでたい席に、と不機嫌な声を上げた。
「わかりました。やり直します」
悦子はどんな顔をしていいか分からなかった。平松の言葉が心を癒していく。そして父親が、「めでたい席に」と言ったのを聞き逃さなかった。
八人で寿司を食べた。子供が二人混ざると場も和む。酒が強い平松に兄夫婦が目を丸くして、平松も時折笑いながら、彼らに訊かれたことは答え、また悦子について聞きたいことを問うた。そして最も場を盛り上げてくれたのは幸久で、平松と話が合った。カードやゲームの話を、周りの人間はちんぷんかんぷんだったが、平松は良く知っていて、詳しい人間を前に幸久が嬉々として話している。カンナはずっと平松の膝の上を占領していた。
泊まっていけという薦めを断って家を出る。兄も飲んでしまっているからタクシーを呼んだ。両手いっぱいの紙袋を悦子も平松も持たされていた。横浜でも手に入るような物がたくさん入っている。実家とはそういうものだ。
「ほいだら、また日が決まったら教えろ」
父母は玄関先で別れたが、兄夫婦は外まで出てきて見送ってくれた。
「ん……、わかったよ」