3. Softly, as in a Morning Sunrise-20
鼓動が高鳴ってくる。呆然とまだドアを見つめている視界が歪んできた。頬をとめどなく流れていく涙がぽたぽたと顎から足元に落ちた。
「……大変なことしちゃったよぅ……」
項垂れて鼻を啜りながら話す悦子の話を、キスをしていただの、体を触ってもらっていただののくだりは何とかスルーして聞きながら、美穂はこの女、中学生かと呆れていた。かつ、これまで颯爽と恰好が良かった悦子が、全くか弱い女になっている姿が何となく可愛らしくも思えた。
「そっかー……。ごめんねー、私、変なアドバイス悦子にしちゃったね」
あんたがドヘタクソなんだけどね。
あれだけ仕事をこなしながら、男を転がすこともできない。カッコつけてオトナの女を見せようとして、結果泣きじゃくっている。
「どうしよう、美穂ぉ……」
「んー……」
簡単だ。「電話したら?」
「え……」
顔を上げた悦子の目元が、新たに流した涙で更に酷いことになっていた。誰に対抗してマスカラ濃く引いてたんだろう。――負けたくなかったんだな。向こうは闘ってるつもりまるでないだろうけど。にしても、そんなに好きなんだ?
「マシュマロマンに戻ってきてもらえばいいじゃん」
「そんなことしたら……」
下唇を噛む。悦子のそんな表情を初めて見た。「……ダメな女になっちゃう」
よく分かってんじゃん。でも大丈夫、手遅れだから。
「でも、好きなんでしょ?」
美穂は悦子の頭を撫でて、脳天に唇を押し当ててやった。悦子が頷く。
「翔ちゃんがいないと、生きていけない……」
翔ちゃん? あー、平松翔太だもんね。……翔ちゃんって呼んでるんですね。
「ならさ、電話しな?」
「でも……、出てくれるかな」
「……出てくれるまで鳴らしたら?」
「そんな、ストーカーみたい……」
もしこのまま平松が冷めてしまったら、本当に悦子がそうなるかもしれない。その原因を自分が作ったことになると困るから、美穂は悦子の背を撫でて励まして、
「大丈夫。出てくれるよ」
出ろよ平松っ、と念じてベッドに置かれていた悦子の携帯を渡した。左手で持ち、右手の一本指で操作し、大きく深呼吸をしてから発信ボタンを押している。何だこの乙女、と思いながら美穂が発信画面を見て出ろ出ろと祈っていると、
「もしもし……」
と耳を澄ましていた携帯のスピーカーから小さく声が聞こえてきて、悦子に見えないところでガッツポーズをした。
「え、悦子です……」
「わかるよ」
「えっと……」
美穂が言い淀んでいる悦子の膝をポンと叩いて背中を押す。「翔ちゃん」
「なに?」
何だよ、冷てえな、平松。クール気取ってんのか? もうちょっと嬉しそうな声きかせてやれよ。
「……どうして出て行っちゃったの?」
「悦子が会わないほうがいいって言ったから」
「どうして帰ってこないの?」
「悦子が時間置きたいって言ったんでしょ?」
「うぅ……」
悦子は項垂れて美穂の方を一瞥してくる。どうしようと言っていた時の、助けを求める目だ。美穂は一本指を動かして、行け、ほら言え、とけしかけた。
「翔ちゃん……」
「ん?」
「……お願い、戻ってきて」
「いいの?」
「戻ってきて」
「いいの?」
「……」悦子は涙声になって、「お願いします。戻ってきてください……」
美穂が悦子の突然の敬語にギョッとした。
「いいよ。じゃ、今から戻るね」
「うん、待ってます……」
ヘタクソにも程があるし、こりゃいかん、と美穂は思って悦子から携帯をひったくった。
「あー、もしもし」
「あ、はい」
突然変わった電話先に平松の声が畏まった。
「私、悦子の同期の桜沢ってのだけど」
「あ、……、は、はい、えつ……、権藤チーフから聞いています」
なんだよ、さっきまで亭主関白気取ってぶっきらぼうに答えてたくせにさ。美穂は平松に聞こえるように強い咳払いをしてから、
「なんか知んないけど、可愛い新入社員への嫉妬に狂ってる面倒な女が一人いるんでさ、とっとと来て回収して欲しいんだけど。あんたが頼りないせいでさ、私、この時間に呼び出されて、迷惑してんだよね」
平松の頼りなさが根本原因ではないのは分かっているが、このまま平松を呼び戻したら更に図に乗ると思った。
「はい、えっと……、すみません。すぐに戻ります」
「それから」
美穂は更に強い口調で続けた。
「どうも今回はこの子が勝手におかしくなってさ、こんなことになっちゃったみたいなんだけど。ほんっとーに、あんた、変なこと考えてないんだよね?」
「い、いえ、それはないですっ。絶対に」
平松が更に畏まった口調で答える。
「あ、そ。……、悦子はあんたがいないと生きていけないんだってさ。バカだよねー?」
「は、はい……、あ、いえ……」
「よー、色男」
美穂は低い声になって凄んでみせた。「はい、っつーのはいいんだけど、いい? 悦子は前はそれはそれはシャキッとしたイイ女だったんだよ。もしこれ以上、このバカ女が泣くようなことがあったら、私、地の果てまで追いかけてあんたをフルボッコにするよ? わかった?」