3. Softly, as in a Morning Sunrise-16
キッチンテーブルに置いていた携帯が震えた。メールかと思っていたが振動音が続くから電話だ。誰だこんな時間に。まさか若く可愛い女の登場に絶賛困惑中の女かと予想をつけたが、
(だとしてもゴメン……、夫婦の営みに水をささないで)
と最近心弱っている同期には悪いが無視をした。ドライヤーの音で夫には聞こえていないようだ。ずっと鳴り続けている。しつこいな、と耐え続けていると止まってくれた。「留守番電話サービスに〜」というアナウンスを聞いたのだろう。
脱衣所からはペチペチとスキンローションを塗る音が聞こえてくる。まぁ、ヒロくん念入りね。どこかのマシュマロマンの彼氏とは違って、テニスが趣味で引き締まっている夫の体……、抱いてくれる始めには筋肉質だがこのスキンローションのおかげでスベスベで、入念で懸命な前戯の中で汗ばんでいく夫の肌の感触を思い出しながら、美穂は体がきゅっと締まって、念入りなのはいいけど妻が待ち焦がれてますよ、と焦れていると脱衣所のドアが開いた。ワインを持ったままクルリと振り返って微笑む。腰にバスタオルを巻きつけたままの夫。夫はパジャマを着なくていい。そのほうがカッコいい。あと少しだけワインが残っている。さあ、妻を抱く前の景気付けの一杯でもいかが?
夫が潤んだ妻の瞳を優しい微笑みで眺めながらソファの方にやって来ようとしたとき、キッチンテーブル上の携帯がまた一度だけ震えた。
「メールだよ」
夫が美穂の携帯を手に取り持ってこようとして青ざめた。「み、美穂っ。ご、権藤さんっ……」
やっぱりあの女か。でも、いつも悦子の話をしているからって、そんなにビビらんでも――。
夫から受け取った携帯の画面には、着信履歴一件、メール一件。届いているメールが冒頭表示されている。
差出人は『えつこ』、件名は『もうだめ』。
本文、『みんなによろしくね』。
ひいいっ、と声を上げそうになった美穂は夫にワイングラスを渡すと慌てて着信履歴から折り返し発信を押した。呼び出し音が鳴る。鳴り続く。ちょっと、マジでやめて、と心臓が高鳴ったときに、
「もしもじぃ……」
と鼻にかかった濁った低い声が聞こえて、その声色だけで悦子が髪を振り乱し、鼻先を赤くして泣きはらしている姿が容易に想像できた。
「え、悦子っ、どうしたのっ!?」
早まらないで、と続けようとしたところで、
「……美穂ぉ。どうしよぉ……」
とだけ言って、号泣が続いた。
「どうしたの?」
「……どうしよぉ……」
「悦子」
「……どおしよぉ……」
「だからっ!」
号泣している相手には悪いが、うわーんと聞こえてきてイラついた。
「あのね、うん、悦子、落ち着いて?」
リピートされてもたまらないので、一際優しい声で宥め、「何があったか言ってごらん?」
すると嗚咽が止まったが、しくしくと鼻を啜る音が暫く続いて、その長さに再びイラっとした頃に漸く、
「……出て行っちゃったぁ……」
と聞こえた。
「出て行った? カレシ?」
「うん……。……そんで、戻ってこなぁい……」
喧嘩したんだな。ビシッと言った末の口論。悦子は今まで恋人と痴話ゲンカなどしたことないに違いない。相手がM男なら不戦勝だろうから。つまり、いかに仲の良い友達であれ、これから聞かされることは愚痴でしかない。
「……あ、あのね、悦子……」
今日はヒットする確率が非常に高い日だ。結婚してから暫くは二人でいようということで自制してきたが、この度お互いの合意のもとに晴れて解禁となった。風呂に向かう前に確率が高い日であることを夫に一言伝えて返事を待たず、キャッ、とこの歳になって恥じらいの一芝居を打ち駆け込んでいる。よりによって何で今日この日にビシッとやっちゃうんだ、この女は。
「わ、悪いんだけど、ウチはね、これから……」
夫婦でセックスをします、と伝えたら悦子は発狂するかもしれない。だが今日を待ってたんだ。今のために数時間盛り上げてきたのだ。言うんだ、美穂、と自分を鼓舞して口を開こうとすると、
「もう生きていけない」
と、啜る音の中で決意したような声が聞こえてきた。
「いや、悦子、落ち着けって」
「もうだめ。明日まで生きてる自信ないから、いっそ」
「いやいや、悦子。大丈夫。大丈夫だから、ちょっとくらいケンカしたって……」
「みんなによろしく」
際々の悦子の震えた声が聞こえた。電話を切るつもりだ。だめ、悦子、と声を荒らげて止めようとした刹那に、ポツリと、「……こうなったのも美穂のせいだ。あんなこと言って私をけしかけるから……」
と聞こえてきた。マジかこの女。本気にしても気の迷いにしても後味悪すぎるぞ。
「ちょっとそのまま、そこで待ってろっ!!」
巻舌気味に大声で言って、ハッとなる。すぐ傍の夫を向いた。こんな威嚇に満ちた俗悪な一面を彼の前で見せたことがない。だが夫は美穂が電話をしている間に、ジーンズにネルシャツ姿になり、美穂が羽織るロングカーディガンと車のキーを既に持っていた。誠実な面持ちでコクリと頷く。
(ステキ……、ウチの夫は世界一)
抱きついて熱烈なキスをしたかったが、夫は妻の友達の一大事に大真面目だし、電話の向こうからは歔欷も聞こえてくるしで、美穂は電話を繋いだまま夫と家を出た。