報われない一日-1
僕は目が覚めた。
6時半きっかりに、まるでタイマーを仕掛けた機械のように、しかし時計も使わず、一瞬で睡眠を遮断した。
いかにも不意の仕業のごとき僕の目覚めは、知らずうちに内密に取り決められた約束事のようで僕はきわめて不快だった。なぜなら、それは僕の意思とは無関係に作用しているものがあるからだ。起きなければならないから反応したのである。たとえ完璧な覚醒であっても、僕は僕の意思を尊重し、僕自身の意思で動かなければ気が済まないのだ。
洗顔を済ませ、階下に降りて行くとコーヒーの深い香りと朝食の匂いが漂ってくる。
「先生、おはようございます」
「おはよう、手嶋さん」
通いの家政婦が白いテーブルに料理を並べ終えたところだった。
彼女には前日に今日の予定を伝えてある。起床時間、朝食、仕事、昼食、さらに休憩予定時刻まで細かに指示して任せてある。手嶋聡子は僕の家に来るようになって2年、ほぼ僕のスケジュールをこなしてくれる有能な家政婦であった。齢は来年還暦だと聞いている。寡婦で離婚した病弱な娘と二人暮らしのようだが、僕が関わる問題ではない。
彼女にはいつも夕食の支度までしてもらっているが、今日は早めに帰ってもらうことになっている。
(奈津子が来る……)
半月ぶりである。夜8時に来ることになっている。24歳のくすみのない白い肌を持つ女だ。妻とは一回りも齢がちがう。僕のファンだといって押しかけてきたことが切っ掛けで秘めた関係になった。2人で夜を過ごすのだ。
(楽しみだ……)
食事を終え、頭の中をからっぽにするように目を閉じてゆっくり煙草を喫った。この煙草を喫い終えたところで仕事に取り掛かることになる。
仕事は今日中に仕上げる予定だ。いや、終わらせなければならない。義務付けることは好きではないが、僕の仕事はある意味でその義務付けが救いとなっている。僕は、僕自身に義務を強制することで1日を有効に使い得ることにもなる。
仕事は3時までに終わる。終わらせる。そうでなければすべてが狂ってくる。どんなに腹が空こうが昼飯はそれからだ。最終章の肝心な部分だが、すでに僕の頭には語彙の1つ1つまでびっしり印字されている。わけはない。
書き上げたら、行きつけの『ロリー』に行こう。あそこは洒落た店だ。軽い雰囲気があるのに、品がある。レベルは高いから騒がしい若者などいない。
腹の空き切ったところで一気に食らう食事は格別だ。熱い卵スープはシンプルで味わい深い。焼きたてのステーキはむろんA5ランクのとろける霜降りだ。そしてワインでも飲むか。……
食事が済んだら姫岡に電話する。出版社の長年の僕の担当だ。あいつはなかなかの慧眼を持っている。作品に関しても控え目ながら的確な感想を述べる男である。時には売れっ子作家の僕に対してかなり辛辣なことを言ってむかっ腹を立てたこともあったが、僕はその感性に信頼を置いている。だから、まず彼に作品を読んでもらうことが習慣になっていた。
(自信がある……)
今度の作品はこれまでのものを超えている。彼を唸らせる自信があった。
(楽しみだ……)
姫岡に会うのは静かなところがいい。だから昨夜、『葵』の個室を予約しておいた。和室の落ち着いた部屋はいつもの一番奥まった雑音の少ない上得意客専用の部屋である。
そこで僕はテーブルに原稿を置いて座椅子にふかぶかと体を沈めて煙草に火をつける。姫岡は一礼して原稿を手に取り、一心に文字を追い、ページをめくっていく。
途中で姫岡はポケットから煙草を取り出し、咥え、火をつける。その目は原稿から離れることはない。惹きつけられている。
ここでは日本酒の熱燗だ。手酌で飲み、煙草を喫い、じっと姫岡の顔を窺う。料理は読み終わってからだ。
やがて俯いていた姫岡の顔が上がって僕を見る。沈黙が流れる。それは彼が感動した時のパターンだ。あまりに素晴らしくて言葉を探している。そして大きく息をつき、
「これは、すごい……」
そう言って冷めた酒を口にする。……
(待っていろ、姫岡)
僕は2階の仕事部屋に入った。時刻は7時半。今日で終わる僕の仕事が息をこらして待っている。今からデスクのパソコンに向かって一気にキーを叩く。多少の練り直しはあるだろうが、問題はない。さあ、始めよう。……その前に……。
(部屋の空気が澱んでいる……)
僕は窓を開けた。差し込んだ朝の日差しと入れ替わるように部屋のこもった空気が換気されていく。やはり仕事の始まりは爽やかなほうがいい。
窓を閉めようとして手が止まった。
(誰だ?)
家の門を開けて入ってくる。こんな朝っぱらから。
(まさか……)
佐伯ではないか?
(そうだ、佐伯だ……)
頭頂部の薄くなったジャガイモのような頭はまぎれもなくあいつだ。何をしにやって来たんだ。
(くそ……)
よしてくれ、僕は忙しいんだ。
僕はかっと熱くなって階段を降りていった。