報われない一日-3
大切な時間を浪費した。早々に仕事に戻らなければならない。予定の狂いを僕は急ピッチで穴埋めしなければならないのだ。今日の予定は仕事と息抜きが組み合わさっている。少しの邪魔もごめんなのだ。僕はパソコンに向かって集中した。
遮断された作品のイメージが頭に流れてくる。キーボードを叩く音にリズムが生まれる。
(いいぞ……)
滞りがない。もともと頭の中にはかなり形を成したストーリーは出来上がっている。執筆ペースさえ狂わなければ何の問題もない。
(順調だ……)
僕の指は軽やかに、ピアニストが曲を奏でるようにキーを流れていく。この分ならロスを取り戻せる。どうやら予定の時間に間に合いそうだ。
僕は自分の思考力を楽しんでいた。ディスプレイに次々と文字が打ち込まれ、連なっていく。どれも気の利いた練り上げた語彙と比喩、そして描写。何より話の展開は書いている自分がわくわくしている。
それにしても、この仕事場はなんて素晴しいんだ。僕一人の世界。自信作をいくつもうみだしてきた。僕を、知らぬ間に、そうあるべき空間に塗り込めている。しかもそれは僕の予定の実行範囲なのである。ここには奈津子だって入れたことはない。誰も入れない。手嶋聡子が掃除をしに来ることはある。そしてタイミングのいい時にコーヒーを持ってやってくる。それ仕方がない。邪魔という存在ではない。むしろ齢の割に気の利いたおばさんだ。
(害はない……)
頭と指は完璧に連動し、半分ほど進んだ。時折ほぼ無意識に咥える煙草は創作の潤滑油である。ちょっとした予定の狂いももう僕の中では解消している。
ラジオをつけた。テレビもあるが執筆中は絶対につけない。当然ながらテレビは視覚を伴うことを前提としているから言葉は足らず、重い。ラジオは耳に自然と流れてくる。
『一時、突風のおそれがあります……』
気象情報が流れている。
(突風でもなんでも吹いてくれ)
僕は手を休めずに笑った。そんなものが果たして頑強な僕の家にいったいどれだけの障害を及ぼすというのだろう。
ラジオが気象情報からけたたましい音楽に変ったところでスイッチを切った。
僕は目を閉じ、大きく背を伸ばした。重さを感じる刺激が眼球に感じる。集中していた証しだ。その疲れだ。この辺で休息がほしいところだ。
階段を登ってくる静かな足音が聴こえる。やはり来てくれた。手嶋聡子だ。
ノックの加減も極力控え目なのがいい。
「コーヒーをお持ちしました」
「どうぞ」
「お仕事中失礼します」
「ちょうど休みたいところだった」
彼女はガラステーブルにほとんど音を立てずにカップを置いた。横に置いたのはお代り2杯分の入ったボトルである。しばらく保温がきく。彼女が自分で考えたもので、こんななんでもないことをこれまでの家政婦は思いつきもしなかった。いや、言われたことだけをしていればいいということだったのだろう。おかげでいちいちお代りを頼む手間がなくなった。
閃いた文章を打ち込んでいく。執筆というものはいかに流れが大切なことか。気持ちが乗ると次々と言葉が繋がっていく。果てしなく連結された列車が頭の中を巡っているようだ。
(このまま進めそうだ……)
傍らの電話がけたたましく鳴った。ここの電話を知っているのは限られている。出版社とそれに……。
呼び出し音は鳴りやまない。
(わかった、わかった)
僕は溜息をつきながら受話器を取った。
『もしもし……』
甲高い息子の声が響いた。
『パパですか?パパ?』
4歳になる息子は最近電話に興味を持っている。だが自分で掛けることはまだ出来ない。 僕は片手を伸ばして煙草とライターを取る。それは至極面倒な行為だ。電話を耳に当てながら、ぎくしゃくといらぬ手間がかかる。原稿に集中している時は煙草に火をつけることも流れのひとつになっている。
(なんてことだ……)
1本の電話に費やす無為な時間。たとえ数分でも無駄なことはしたくない。息子との時間はいつも十分にとってある。
「ママを出してくれ。そばにいるんだろう?」
僕は早口で促す。息子の甘えた声を一切否定する冷たい調子だ。
『モシモシ……』
優子の間延びした声が聞こえた。その声に被さるように車の音も聴こえてくる。外からだ。なぜ?
「何だ?どこからだ?言ってあるはずだ。仕事中だぞ」
『わかっています。駅前にいるの。それでね、それで、あたしの友達の小山さん、知ってるでしょ?一緒なの』
「駅前?友達の小山?」
『ええ。小山さん。相談があるってみえたんですけど。あなたに、是非って』
「ソウダン……」
僕は言葉を切った。
(うんざりだ)
どいつもこいつも『ソウダン』という言葉を安易に弄ぶように、しかもご丁寧に自分の世渡りの醜さを包み込んで持ち掛けてくる。それだけですべてを隠し、うまくいくようなつもりでへらへらやってくる。それだけだ。
(冗談じゃない)
「金か、駄目だね」
僕は吐き捨てるように言った。
「さっき佐伯に貸したばかりだ。金は湧いてくるわけじゃない」
『ええ、でも、困っているらしいの。話だけでも聞いてあげて』
「だめだ。俺は金貸しじゃない」
『でも……』
言葉が途切れた時、電話を切ってしまおうかと思ったが、じっと待った。苛立ちが起こってくる。
『小山さんは高校時代の親友なんです』
「親友?本気で言ってるのか?親友って金を貸す肩書きだとでもいうのか?」
『ひどい言い方だわ……』
優子の声が涙声になり、電話が切れた。たぶん息子の声がすぐそばに聴こえたから手を出して切ってしまったにちがいない。