報われない一日-2
駆け降りて行くと手嶋聡子がインターホンに出ようとするところだった。
「いい。僕が出る。君は奥へ行っててくれ」
佐伯の鳴らすブザーが耳に障る。さらに大声で僕を呼ぶ。
「頼む、頼むよ、話を聞いてくれ」
一向に帰る様子はない。
居留守を使うのは無理なようだった。
僕は力任せにドアを開けた。そして仏頂面で舌を鳴らして佐伯を睨みつけた。
「何の用だ?」
「おはよう……」
お愛想笑いを滲ませた狡猾な目付きは相変わらずだ。
「朝っぱらから失礼とは思ったんだが……」
「だから何だね」
「相談があるんだ……」
僕はここで煙草に火をつけてヤツの顔に思い切り煙を吹きかけてやろうかと思ったが、煙草を持ってきていなかった。
「佐伯君。君は人の顔つきで事態の険悪さを悟る能力に欠けているとみえるね。もし仮に、君にそうした機転が備わっているんだとしたら、そんな愚にもつかない挨拶はしないだろうね」
「すまない。わかってる。君にそうやって叱られることは覚悟してやって来たんだ」
「覚悟して来ただって?」
「「ああ。君が忙しいことは誰だって承知しているよ。いま売れっ子の、ベストセラー作家の君に時間を割いてくれということがどんなに非礼なことか、わかっているんだ」
「どんなに……」
僕はドアを少し閉めながら言った。
「どんなに小さな子供でも、分かり切ったことには興味を示さないものだ」
僕はさらにドアを閉めた。
「頼む」
佐伯は閉めかけたドアに手を掛けて、もう一度元の広さに開かせようと力を加えてきた。
「中に入れてくれないか。俺の話を聞いて欲しいんだ。5分でいいんだ。助けると思って、頼む」
「はっきり言うがーー」
僕はドアから佐伯の手を払いのけた。
「君を家に入れて話を聞いてやれるほど僕は善人じゃないんだ。それに、このままここで君とこの馬鹿げたやり取りを続けるほど暇でもない。それは君が承知している通りの理由だ。恨むなら恨めばいい」
僕はいきなりドアを閉めた。金属的な音が耳の奥に残った。
佐伯の哀願する声が聞こえた。
「恨むなんて、そんなことあるわけないよ。高校時代の親友じゃないか」
(親友?冗談じゃない)
「もう、どうにもならないんだ。首をくくる一歩手前なんだ。助けてもらえないか」
(首をくくる……それは見物だな……やれるものならやってみろ)
「家族もいるんだ。下の息子はまだ3歳なんだ。君だって子供がいるだろう」
(だからなんだっていうんだ!)
僕は荒々しく仕事場に上がっていった。
煙草に火をつけ、立て続けに忙しく喫った。
(あいつには半年前300万融通してある……)
窓を開けて見下ろすと肩を落として門に向って歩く佐伯の姿があった。
(同情なんかしてたまるか)
佐伯が立ち止まり、踵を返しかけ、また俯いて背を向けた。
僕は舌打ちをして、声をかけた。
「おい!」
苛立ちながら髪を掻き上げ、
「いくらだ、いくらほしい」
佐伯が振り向き、目を見開いて窓の下に駆け寄ってきた。
「できれば300万。それだけあれば不渡りを出さずにすむ」
僕はゆっくりテーブルに戻って小切手にペンを走らせた。
(300万……)
その数字の重さをあいつはわかっているのか……。
書いたばかりの数字に咥えた煙草の灰が落ちた。それを息で払って窓辺に寄った。
佐伯が奇妙に歪んだ顔で見上げている。僕は見下しながら煙草を喫って大きく煙を吐いた。
「300万だ」
「すまない、助かる。本当にすまない」
「礼はいい。その代わりすぐ帰ってくれ。急ぎの仕事があるんだ」
「わかった。申し訳ない」
僕は小切手を阿呆のように口を開けて見守る佐伯に向って飛ばした。
(小さな紙片が300万)
小切手は紙飛行機のようにはいかない。ひらひら舞い落ちて、風に乗った。佐伯は両手を挙げて右往左往している。まるで阿波踊りだ。
小切手は舞い降りて門に程近い槇の枝に引っ掛かった。
「ありがとう。これで何とかなる」
佐伯はあたふたと槇の木に駆け寄った。そして僕を振り仰いで弱々しく笑った。
「登らせてもらうよ」
「ああ」
僕は窓から身を乗り出して言った。
「枝は折らないでくれよ」
先週植木屋が入って枝ぶりを整えたばかりだ。
佐伯は太い枝を選んで取り付いた。動きが鈍い。慎重なのか、不器用なのか。
(まるでナマケモノだ……)
「それじゃ……」
僕は苦い想いを噛みしめながら窓を閉めかけた。
「ありがとう。必ず返すよ」
佐伯は木に絡み付いたまま苦しそうに声を出した。
「当然だ。合計600万。返してくれなきゃ訴えるよ」
情けない表情を見せて頷いた。見るに堪えない。
やや乱暴に閉めた。カーテンを引き、完全に気持ちを遮断した。
部屋に静寂が戻った。僕は椅子にどっかと腰を沈めると煙草を灰皿に揉み消した。怒りのまま押しつけたので指先に火種が触れた。
(くそ……佐伯のやつ……)
忘れよう。考えまい。……