Mirage〜2nd Emotion〜-11
「名前で、呼んじゃった」
「‥‥あ」
冷静になって思い出す。そう言えば彼女は何の違和感もなく『幸妃』と呼んでいた。中学校の入学式で、担任に女の子と間違えられる要因を作った名前も、彼女が呼ぶとまた違う音色がした気がする。
「いい顔になったな。さっきより全然男前」
筑波は人差し指を僕に向け、悪戯っぽく笑いながら立ち上がった。
「また、何かあったら言って欲しい。やし、今日は帰るな」
「筑波」
僕が彼女の名前を喉の奥から搾り出したのは、彼女がドアノブに手をかけたとき。筑波は銀色のそれを掴んだまま僕を振り向く。
「あ‥‥その、ありがとう」
本当に、僕はそれだけを言いたかったのだろうか? 言った後、僕はちょっとした疑問に駆られた。
そんな葛藤を余所に、筑波は柔らかく微笑むと、ゆっくりと部屋を出て行った。
がちゃり。
ドアが閉まる音がやけに大きく響く。
まるで泉に投じられた小石のように、筑波の言葉は僕の心に波紋を生んだ。そしてゆらゆらと水中を漂いながら底へと行き着く。泉の底へと行き着くと小石は沈んでいた澱を巻き上げた。その澱は水中で霧散し、やがて消えていく。
『ありがとう』
僕は、閉じられたドアへと向かってもう一度、そう呟いた。
今なら、解けた輪を違う紐で結び直すことが出来る。そんな気がした。