Limelight-4
隣から、彼女が息を呑む雰囲気が伝わる。
「まぁ、無理にとは言わねーから。暇なら来い、ってだけだ」
俺はそこまで言うとゆっくりと席を立った。その右手で財布から抜き取った1万円札をカウンターに置くと、隣の椅子に引っ掛けてあったジャケットを羽織る。
「ま、ゆっくりしてけよ」
何かを言おうとした亜希にそう言うと、俺はその店を後にした。
店を出るとき、視界の片隅に、マスターが小気味の良い顔でグラスを拭いているのが見えた。
今日、俺が晴れて先発デビューとなったのには幾つか訳がある。
その最大の訳というのが、俺の所属するチームには左の先発が少ないこと。しかも、貴重だったサウスポーの一人が今年のシーズンオフにFA宣言をするというのが水面下で現実味を帯びてきたため、来期以降の可能性を探るためにこうして若手の俺に白羽の矢が立ったという運び。
この知らせを聞いたのは一昨日のこと。この知らせを聞いて、すぐさまチケットを入手した俺は、喫茶店の一件以来連絡を取っていなかった亜希を彼女の家の近所のショットバーに呼び出したというわけだ。
その彼女の姿は当然見えない(視力の問題で)。来ていないとなれば、別の策を考えなければならない。
そんなことを考えながら、握っていたロージンを叩きつけ、俺は再び打者と相対す。彼は入念に足場をスパイクのつま先で足場を作った後、一度大きく体を背中の方向に反らし、バットを構えた。
俺は左肩の向こう側の二塁ランナーに一瞥をくれる。そしてセットポジションから足を上げずにモーションを始動する。リリースの直前、ボールの縫い目に中指と人差し指を滑らせる。横回転を加えられた白球は小さく弧を描き、内角低めに構える捕手のミットに吸い込まれる。
主審の右手が挙がる。
初球のカーブの判定はストライク。ファーストストライクを拍子抜けするぐらい簡単に取った俺は、しかし恐怖すら感じていた。手が出なかったわけではない。打者は、全く打つ気を見せなかったのである。正直、不気味すぎる。
それをどう感じたのかは知らないが、キャッチャーはコースを外角に変え、同じ球種を要求してきた。
初回から一度も首を振ることなくここまで抑えてきた俺は、彼の経験を信じた。
しかし、その球も同様に見逃されると、さすがにその異様さを悟ったのか、冷静沈着な扇の要は、次は外に外れるスライダーを要求してきた。狙いとしては、あわよくば引っ掛けさせて内野ゴロを、というところか。