D.-1
「えぇぇっ?!?!瀬戸さんにキ………」
「楓っ!」
自宅からほど近い場所にあるチェーン店の居酒屋に、楓の奇声が響く。
陽向は楓の口から発せられた奇声を慌てて両手で覆った。
「病院の人いたらどーすんのっ!」
小声で「ばかっ」と言うと、楓は「そうだ…」と我に返ったように呟いた。
あの後、陽向は泣きながら楓に電話した。
彼女は3コール目で応答した。
『はーい、もしもーし』
「うっ…う…か、楓っ…」
『えっ、陽向?なに、どーしたの?』
泣きながら自転車を漕いで電話する人間を、おかしいと思わない人はいないだろう。
すれ違う人がこちらを二度見する。
が、今はそんなのどうでもいい。
『泣いてんの?どーした?五十嵐と何かあった?』
「ち…がうっ…」
『病院でまたなんかやらかした?』
「ぢがゔのっ…」
『じゃー何よー…。てか今家にいないから、17時に待ち合わせしよ』
楓はそう言うと、近くの居酒屋の名前を口にした。
陽向は了承し電話を切った後、ノロノロと自転車を漕いだ。
夏の日差しが死ぬほど暑い…。
日差しを避けるというより、泣き顔を隠すように帽子のつばをくいっと下げる。
考えたくもないのに、瀬戸の顔が脳裏に浮かぶ。
一体何なんだあいつは。
人を何だと思っているんだ。
家に着き、こんなに暑いというのに湯船にお湯を張る。
汗だくになった服と下着をカゴに放り投げ、浴室のドアを開ける。
湯船が溜まる間、頭からシャワーをかぶりつづけた。
また、涙が出始める。
もう、意味わかんない…。
瀬戸に遊ばれ、けなされ、しまいには告白めいた事も言われ、最終的にはキス。
行動に腹が立つとともに、湊以外の人とキスしたことに心がひどく傷付いた。
湊が瀬戸の知り合いじゃなくて本当に良かった…。
知り合いだったら、ありえないほど責め立てられるのが目に見える。
陽向は顔を両手で覆い、声を押し殺して泣き続けた。
気付いたら湯船からお湯が溢れ返っていた。
コックを捻ってお湯を止める。
そのまま湯船に入ると、お湯が外へと流れ出した。
瀬戸は一体、何を考えているのだろうか…。
お風呂から出た後、陽向は頭がパンクしそうで睡眠など忘れていた。
気付いたら17時近くになっており、慌てて準備してここまで来た。
タイミング良く会った楓とそのまま入店し、注文する前から陽向はダムが決壊したように今日の出来事を話した。
そりゃ驚くに決まっている。
楓が奇声を発するのも無理はない。
「瀬戸さんって、そーゆー感じの人なの?」
「…わかんない」
「うーん…まー、でも陽向は他の1年目より甘やかされてる気がする」
「うそだ」
「嘘じゃないよ。だって、この間瑞希なんて『こんなのも分かんねーんだったら帰れ』とか『もう報告聞かないから違う事やって』とか結構ズタボロに言われてたよ」
「あたしだってそーだよ…」
「嘘だぁ。なんだかんだ陽向の事かばってるよ、瀬戸さん。この間岩本さんの転入の時だってさ…」
陽向はあの日の事を思い出した。
分からないと言ったら、全部何もかも丁寧に教えてくれた。
報告の時も、色んな問題があるって事を教えてくれて一緒に考えてくれた。
勤務後も離床が大切だと教えてくれた。
…全部ぶっきらぼうだったけど。