D.-9
兄、五十嵐航は東武蔵山から少し離れた都内の栄えた場所でバーを営んでいる。
わりと客は入るらしい。
何度かこの店には来たことがある……1人で。
誰かと来るには静かすぎる。
誰かと来たと言ったら、雅紀を誘ったのが最後だろうか。
「珍しいな、湊が人と来るなんて」
「連れて来られたんだよ」
湊はcoronaの瓶を口にした後、瀬戸を軽く睨んだ。
「つーか兄ちゃんもこいつと知り合いなわけ?」
「薫は大学ん時のバイトの友達。ほら、お前のライブん時も一緒に行っただろ。覚えてない?」
「…知らねーよ。いつの話だよそれ」
「いつだったかなぁ?去年か一昨年だったかな?あ、そーだ!思い出した、陽向ちゃんトコと対バンしてた時のやつ!あれ、燃えたなー。てかさぁ、陽向ちゃん今もバンドやってんの?」
航が楽しそうに話す。
いつだかに陽向と付き合っていることは話したが、瀬戸の前で話されるのは、何となく嫌だ。
「その陽向って子、風間陽向でしょ?」
「えっ?湊、そーなの?」
「あー、そーだよ」.
ぶっきらぼうに答えてやる。
「風間陽向?…え?薫知り合い?」
「あー、同じ病棟の看護師1年目。ちょー泣き虫で鈍臭いヤツ」
瀬戸の言葉に湊の怒りのボルテージがピクリと作動する。
「でも、ちょー可愛いの」
瀬戸は湊をチラッと見た。
「負けず嫌いで意地っ張りなあの感じ。マジでそそる」
湊も航も黙った。
「奪っちゃいたいくら……」
「薫」
航が瀬戸の前に新しいグラスを差し出す。
瀬戸は黙ってそのグラスを自分の定位置に置いた。
「湊。明日、仕事?」
「あー、うん」
「早いんだろ?今日はありがとな。また今度来いよ。…次は陽向ちゃんと一緒に」
航は湊に福沢諭吉の描かれた紙切れを持たせて店の外へ追いやった。
真夏のそよ風が頬を撫でる。
…どうせワタルの優しさなんだろ、こんなの。
湊は店の裏にあったバケツの取っ手と本体の間に紙切れを挟んだ。
店の中から航と薫の声が聞こえる。
設備のなってない店だ。
湊はそう思いながらその声に耳を済ませた。
「薫、お前湊と陽向ちゃんが付き合ってんの知ってんだろ?」
「だから何」
「湊連れて来て、そーゆーコトが言いたかった訳?」
「絶好のチャンスだろ」
瀬戸の声だけが何故か大きく聞こえる。
風間陽向は俺のモンにする。